ロンダ②(2012年10月23日)
******闘牛発祥の地******
ハイキングから戻った私達が続いて向かったのが、闘牛場でした。

何故ロンダで闘牛場?と思われる方もいるかもしれません。 確かに、闘牛の本場といえばセビーリャであり、そうでなければ首都マドリッドの闘牛場が有名です。

が、ロンダこそが闘牛発祥の地、まさに闘牛の聖地なのです。

闘牛場 時は18世紀初頭。オランダやポルトガルが独立し、スペインは凋落の一途をたどっていた時代のことです。 当時、貴族の娯楽といえば、騎馬闘牛でした。当時は、現在のような徒歩のスタイルではなかったのです。

が、あるとき、その騎馬闘牛を楽しんでいた貴族が落馬。 そこへ、颯爽と現れたのが伝説の闘牛士フランシスコ・ロメロです。 帽子を使って、ひらりひらりと牛をかわし、この貴族を救出してみせたのです。

これが現代闘牛の始まりと言われています。 その町こそ、ここロンダなのです。

そして、このロンダの闘牛場が1785年に建築されたスペイン最古の闘牛場なのです。 これは見ないわけにはいかないでしょう。

闘牛場の階段 もっとも闘牛シーズンは3~9月であり、このときは既にオフシーズン。 残念ながら闘牛をみることはできませんが、中に入ることはできます。

闘牛場に入っても、闘牛士がいないのでは味気ない。 ならば、やることは一つです。 己が闘牛士になるしかありません(笑)

布をもって、ひらりひらり。 牛になって突進。 恥も外聞もない。旅の恥はかき捨てなのです(笑)

でも、皆考えることは同じなんですね。 見ていると、来る人来る人、皆同じことをしていました。

ところで、闘牛場の階段には、美しいタイルがあり、それも一見の価値があります。 ともあれ、時間がとまったような、その闘牛場でゆったりとした時を過ごしました。

******ヌエボ橋******
ヌエボ橋 闘牛場を去って、再びヌエボ橋へと戻りました。 やはり、ロンダにおいて、この橋の存在感は素晴らしいです。

スペイン語でヌエボとは『新しい』との意味で、要するに新橋ということです。 新しいといっても、建築は1793年。

レコンキスタでこの町が陥落したのが、1485年ですから、その時代にはこの橋はなかったわけです。

橋の高さはなんと100mもあり、渓谷の上に架かるその景観は、どこから見ても素晴らしいです。

ところで、レコンキスタの際、ロンダでは激戦があったと言われています。 最後まで抵抗をみせたナスル朝グラナダ王国の滅亡の2年前、カスティーリャ、アラゴンのカトリック両王の 軍勢がロンダへと侵攻してきます。

ヌエボ橋 ナスル朝は既に風前の灯といった状態で、諸都市が次々と陥落するという中、ロンダは激しい抵抗をみせます。 断崖に囲まれたロンダは天然の要害。 そう簡単に陥落するような要塞ではなかったのです。

そう思ってみると、新市街と旧市街を繋ぐヌエボ橋がなければ、100mもの断崖があるのみであり、 その橋がなかった当時、まさに難攻不落の要害であっただろうと思わされます。

そのヌエボ橋を気の済むまで眺めて過ごしました。 こういう町では時間の流れ方もゆっくりでいいですね。

また、パラドールの裏手には、渓谷に沿って遊歩道があり、そこの散策も、渓谷美を堪能できて 楽しいものでした。

******パエーリャ***
スペイン料理といえば、何を思い浮かべるだろうか。 私は何と言ってもパエーリャです。

パエーリャ コルドバでも一度食べていましたが、もう一度食べたいと、ここロンダでも再挑戦しました。

これまで主としてタパを頼んできたのですが、パエーリャにタパをありません。 しかも、ここでは、1人前はなく、2人前のみだという。

まあ、仕方ない、2人前で頼もう、と。

これまでタパばかり頼んでいたので、すっかりここが海外だということを忘れていました。 日本人の感覚と比べると、量が多いのです。

その上、ラムまで頼んでしまったのですから、もうとんでもない。

夜のロンダ パエーリャを半分も食べないうちに、お腹は満足を覚え始め、ついには食べきれず、 残す羽目になってしまいました。

やはりスペインも、料理の量は多かったのです。 翌日、翌々日までパエーリャが胃の中に残っているようで、しばらくこのダメージは続きました。

しかし、味は素晴らしく、パエーリャだけでなくラムも実に美味しかったです。

食後は、風情ある街灯が灯る中、夜のロンダの町の散策を楽しみ、パラドールへと戻りました。

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