ドイツ史⑥(諸侯の時代)
---ヴィッテルスバッハ家のバイエルンとプファルツ---
後にヨーロッパ最大の名門家になるハプスブルク家は、この時点ではオーストリアとスイスを 領有しているだけですが、帝国内の有力諸侯に成長したのは確かでしょう。

が、帝国内の有力諸侯はハプスブルク家だけではありません。他の諸侯に目を向けてみましょう。 かつて帝国内で威勢を誇った名家といえば、ハインリヒ獅子公を輩出したヴェルフ家が浮かびますが、 皇帝家シュタウフェン家との争いに敗れ、ザクセン公とバイエルン公の地位を失い、かつての威勢はなくなっていました。

ヴェルフ家が失ったバイエルン公の地位を継いだのが、ヴィッテルスバッハ家です。 皇帝フリードリヒ・バルバロッサからバイエルンを拝領したのが1180年、以後約740年に渡ってバイエルンを支配した ドイツ最大の名門家といっていいでしょう。

ハインリヒ獅子公が築いたミュンヘンは、このヴィッテルスバッハ家の バイエルン公国の都として大いに栄えていきます。

1214年には、プファルツ伯も継承。 プファルツ伯はハイデルベルクを中心としたプファルツ地方の領主ですが、なんといっても選帝侯で あったことが大きいでしょう。1386年には、帝国内ではプラハに次ぎ、ドイツでは初となる大学、ハイデルベルク大学を設立。 ドイツ文化の中心地として栄えていきます。

この時代、ヴィッテルスバッハ家がハプスブルク家に並ぶ名門諸侯であったといって間違いありません。

が、惜しいことに、1329年にプファルツ系とバイエルン系に分かれ、且つ両家は激しく争ったことで、 ハプスブルク家に遅れをとることになります。

---ルクセンブルク家の躍進---
この時代の有力諸侯として、もう一つルクセンブルク家を挙げないわけにはいかないでしょう。

先に述べたように、諸侯は皇帝の威勢が拡大することを恐れており、弱小諸侯を帝位に推戴することを望んでいました。 弱小領主のルクセンブルク伯であったルクセンブルク家に帝位がまわってきたのも、そうした事情からでした。

帝位を手にしたことが勢力拡大のきっかけになったことは、ハプスブルク家とよく似ています。 折りしもボヘミアではオタカル2世のプシェミスル家が断絶。 プシェミスル家から嫁を迎えることで、ボヘミア王位を獲得します。

大勢力に成長したルクセンブルク家による帝位世襲を諸侯達が認めなかったのもハプスブルク家の事例と同じです。 以後、帝位はルクセンブルク家、ハプスブルク家、ヴィッテルスバッハ家の3家で争われることになります。

そのルクセンブルク家が輩出した皇帝で最も有名なのがカール4世でしょう。 ボヘミア王カレル1世の名でも知られています。

ボヘミアにある帝都プラハ開発に努め、帝国内最初の大学を建設するなど、 文化都市プラハの基礎を築きました。そして金印勅書を発行し、帝国法というべきものを作り上げます。 先に述べた7人の選帝侯が明記されたのもこの中です。

しかし何より選帝侯による皇帝の選挙結果はローマ教皇の承認を必要としない、と定めたことが大きいでしょう。 ローマ教皇の影響力を排除したわけです。

金印勅書の発行は1356年。

その頃の日本はというと、足利尊氏の室町幕府が始まっている時代です。 その隣国中国では、元王朝が末期を迎え、紅巾の乱と呼ばれる反乱が勃発している時代でした。

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