ドイツ史⑤(大空位時代)
---大空位時代---
フリードリヒ・バルバロッサに代表されるように、シュタウフェン朝の時代は、イタリア遠征と十字軍に費やされた時代でした。
言い換えれば、ローマ教皇とヴェルフ家との争いに費やされたと言ってもいいかもしれません。その争いの中で、皇帝は諸侯に大きな特権を与えて味方を増やすことをしたため、そのことが 後の領邦国家の成立へと繋がっていきくことになります。 権力を増した教皇との争いで疲弊したシュタウフェン朝は1250年についに断絶。 世は事実上国王不在の大空位時代を迎えます。 皇帝がドイツ国内に大きな影響力をもった時代は終わりを告げ、諸侯の群雄割拠の時代が始まったと言っていいでしょう。 諸侯は力を増し、皇帝は7人の選帝侯によって選出されるという考え方が定着したのもこの時期です。 当然ながら、この7人の選帝侯は特に力をもった諸侯でした。ここで紹介しておきましょう。 ケルン大司教、マインツ大司教、トリーア大司教、ボヘミア王、プファルツ伯(ライン宮中伯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯の7人です。 選帝侯のうち3人が大司教ですが、彼らはただの聖職者ではありません。 大きな領地を持つ諸侯の一人でした。 日本でも中世の延暦寺などが、荘園を多く持っていたのと近いかもしれません。 但し、聖職としての性質上、世襲はなく、後任を巡っては有力諸侯がそのポストを争う権力闘争の場でもありました。 その他の4人の世俗領主もまた広大な領土をもっていたことは言うまでもありません。
---ハプスブルク家の登場---
大空位時代に終止符を打つべく、皇帝に名乗りを上げたのがボヘミア王オタカル2世でした。
当時のオタカル2世の威勢は強く、オーストリア公位も手にしていました。これに危機感を抱いた諸侯が選んだのがスイスの弱小領主だったハプスブルク家のルドルフ1世です。 当時の諸侯は力を増しており、強力な皇帝が出現することを望まなかったのです。 この当時の諸侯達は、この弱小ハプスブルク家が後にヨーロッパを代表する名門に成長するとは夢にも思わなかったでしょう。 ヨーロッパ最大の名門ハプスブルク家の登場がこのときです。 さて、意に反してルドルフ1世が選出されたことを知ったオタカル2世は反発します。 まして彼は選帝侯の一人。自分を無視して選出されたオタカル2世を認めるわけにはいきません。 当時最大勢力だったオタカル2世に対抗すべく、ルドルフ1世は帝国諸侯と同盟を結成。 そうして、1278年についに両軍は激突。ボヘミア軍はオタカル2世は戦死する大敗北を喫します。 その結果、オタカル2世が保有していたオーストリアがハプスブルク家に渡ります。 諸侯は非力な皇帝が生まれることを期待してハプスブルク家に帝位を委ねたのですが、期待に反して ルドルフ1世は有能でハプスブルク家が勢力を拡大させるきっかけになったのでした。 ハプスブルク家がさらに勢力を拡大することを恐れた諸侯はハプスブルク家の帝位世襲を認めず、しばらく様々な家から 皇帝が選出されることになります。 この時期の東アジアはモンゴル帝国が南宋を攻め立て、滅亡寸前に追い込んでいた時期ですね。 また、日本は鎌倉幕府が元寇を迎えうっている時期になります。 |
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