ドイツ史⑦(栄光のハンザ同盟)
---ハンザ同盟の成立---
この時代、力を増したのは諸侯だけではありませんでした。
都市によっては市民が大きな力をつけ、領主の影響力を排除し始めていました。
帝国自由都市と呼ばれる都市がそれで、皇帝に接近してその力を背景として、
事実上の独立を果たしていたのです。その代表が港町リューベックです。後背地リューベックが産する塩の交易で栄えたことは先述のとおりです。 ハインリヒ獅子公によって築かれたこの町は1226年に帝国自由都市の権利を獲得。 リューベックの市民達はバルト海沿岸にロストク、ヴィスマルいった都市を次々建設していきます。 これらの都市は通商で大きな利益を得ていたのですが、海路の安全を確保するために、 1259年にリューベック、ロストク、ヴィスマルの3都市で同盟を結成。 これがハンザ同盟の始まりです。 カール4世の金印勅書の約100年前のことです。 ハンザ同盟は拡大を続け、ハンブルク、ブレーメン、ケルンといった有力都市が次々と加わっていきます。
---ハンザ同盟の有力都市---
リューベックからイギリスへ向かう場合、陸路でユトランド半島を横断し、ハンブルクで荷を船へ積み替えて
エルベ川を下って北海に出ることになり、交通の要衝を占めたハンブルクは大きく栄えました。
1189年には皇帝から自由航行権が与えられ、無関税で商品を運べる特権を得て、さらに発展をすることになります。
ハンザ同盟に加入したのは1321年。それ以後、ハンザの有力都市であることを維持し続けてきました。ブレーメンはブレーメン大司教が治める大司教領でした。 1035年に免税特権を手にしたことで、人が集まり、大いに発展しました。 1186年には帝国自由都市の権利を獲得し、14世紀には大司教の支配をはねのけるまでに市民の力が拡大。 そうして、1358年にハンザ同盟へ加入し、ハンザ同盟の中心都市の一つになります。 さて、ケルンです。 選帝侯の一人ケルン大司教の治める都市で、ローマ帝国以来というドイツで最も歴史ある都市のひとつです。 有名なケルン大聖堂の建立開始は1164年。完成に600年もの年月をかけた荘厳な大聖堂の建立の背景にあったのは この都市の商人の財力です。ケルン大司教の権威もあって、ライン川交易の権益を独占して発展してきました。 そして、1259年には集積権を獲得。これはケルンを通過する商品はケルンに3日間展示され、ケルン商人に優先買取権がある というもので、絶大な特権でした。こうして力をつけた市民はついに大司教と衝突します。 1288年の戦争でベルク公国の支援を受けた市民側が勝利し、なんとケルン大司教はボンへと追い出されることになります。 リューベックが東の雄であれば、西の雄はケルンで間違いないでしょう。 ライン川沿いの商業都市の盟主として君臨しました。
---ドイツ騎士団---
ハンザ同盟都市とは別にハンザ同盟に関係の深い勢力があります。
少しそれに触れておきましょう。
ドイツ騎士団です。その起源は少し時代を遡り、フリードリヒ・バルバロッサが敢行した1189年の第3次十字軍にありました。 十字軍に従ったドイツの騎士達を保護するために設置された騎士団がドイツ騎士団でした。 が、新興のイスラム勢力アイユーブ朝の攻勢の前に聖地エルサレムの奪回どころか、守勢にまわる一方。 エルサレムでの活動に意味を見出せなくなったドイツ騎士団はその目を北方に向けます。 北方のプロイセン(現在のポーランドからリトアニア付近)には異教徒プロイセン人が勢力を維持しており、 キリスト教会は彼らのキリスト教化を目指していました。 いわゆる北方十字軍です。新たな使命を探すドイツ騎士団にポーランドから 誘いの声がかかり、ドイツ騎士団は活動の拠点をポーランドに移しました。1237年に現地で先に活動を始めていた リヴォニア帯剣騎士団を吸収すると、北方へ勢力を拡大していきます。 そうしてケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)、エルビンク(現ポーランドのエルブロンク)、 ダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)といった北方の町がドイツ騎士団の元で成長を遂げていきます。 これらの都市はハンザ同盟にも加入し、バルト海交易で大いに栄えました。 こうして、ドイツ騎士団と手を握ったハンザ同盟は北へ大きく勢力を伸ばしていきました。
---対デンマーク戦争---
ハンザ同盟の威勢を世間に知らしめた出来事があります。
当時、北海に大勢力を築いていたのがデンマークでした。そのデンマークが
1360年にスウェーデン南部、1361年にバルト海に浮かぶ島、ゴットランド島のヴィスビーを占拠。特にヴィスビーはハンザ同盟にとって、同盟都市であるだけでなく、バルト海交易の中継地で、最重要拠点でした。 拡大政策をとるデンマークに危機感を抱いたハンザ同盟諸都市はデンマークとの戦争を決断します。 音頭をとったのはハンザの盟主リューベックです。 会議の場は、西方ハンザの盟主ケルン。 ここで結成されたケルン同盟には、ドイツ騎士団に加え、新興のネーデルランド(現在のオランダ、ベルギー)も参加。 まさにハンザの総力を結集した戦争だったわけです。 一つ、興味深い話があります。 会議の場を提供したケルンが実は同盟に参加していないのです。 イギリスとの交易が主で、バルト海交易に関心のないケルンは、会議の場を提供することでその義務を果たしたというわけです。 実にドライな考えですが、この緩やかな同盟形態こそがハンザ同盟の有り様だったということでしょう。 リューベックとしても、ネーデルランドと距離的に近いケルンで会議が開催できれば、新興都市ネーデルランドの参加が望めるので、 会議の場を提供してもらえるだけでも十分だったのです。 さて、ハンザ同盟軍はスウェーデンも助力も得ると、1368年、国王不在の隙をついてデンマーク首都 コペンハーゲンを攻略。 さらに当時デンマーク領あったノルウェーのベルゲンも占領。 たまらずデンマークはハンザ同盟に和を乞うことになりました。 大国デンマークすら屈服させたハンザの実力が世界に認識された瞬間だったといって、いいでしょう。
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