西安史①(中国黎明期)
---周の鎬京---
西安の地が歴史の表舞台に上がってくるのは、そうとうに古い。 紀元前11世紀まで遡ります。

当時、中華の地を支配していたのは、殷王朝でした。 が、この頃、西の地に英傑が出現します。 周の文王がその人です。 その文王の治める周の都こそ、現在の西安近郊でした。 西の地を任される覇者となった文王は、更に賢人の太公望を得て、その威勢を拡大。

文王の子の武王の時代に、ついに殷王朝を滅ぼし、中華を手中にします。 殷を滅ぼしてもやはり都は現在の西安近郊に置きました。 当時の都の名を鎬京(こうけい)と呼びました。

---幽王と西周の滅亡---
周は中華の地をよく治め、非常に安定した王朝となります。 が、その周にもやはり衰退のときがやってきます。

紀元前8世紀、第12代幽王の時代。 このエピソードは面白いので、少し詳しく書いておきましょう。 この幽王には、愛妾がいました。 褒姒という美女なのですが、笑うことがなかったと伝えられています。

あるとき、敵が攻めてきたという誤報があり、集まった諸侯がショックを受ける様子を見て、 なんとその褒姒が笑ったというのです。 これを喜んだ幽王は、敵が攻めてこないのに、何度も諸侯を集め、 そのために、諸侯の信頼を失いました。

さて、この状況をみて幽王を攻める好機とみた人物がいます。 廃された正室の父、申侯がその人です。 紀元前771年、娘が廃されたことに憤慨した申侯は兵を挙げて、幽王のいる鎬京を攻めました。 偽の情報で集まられることにうんざりしていた諸侯が駆けつけることはなく、 幽王はあっさり殺されました。

申侯は娘と幽王の間に生まれた子を王として即位させます。 これが平王です。 首都鎬京は戦乱で荒廃したため、都を東の地洛邑に移します。 そのため、これ以後の周を東周と呼び、それ以前を西周と呼びます。 この東周の時代は、王の権力が弱くなり、実力のある諸侯が実質的に天下を主宰するようになります。 春秋時代とも呼ばれる時代の始まりです。

---秦の咸陽---
戦国時代に入ると、荒廃した鎬京の辺りに、新たな勢力が進出してきます。 西の新興勢力で、戦国七雄の一つ、がそれです。 秦は東周王朝の建国に功績があって、諸侯に取り立てられた、新しい国なのですが、 他国出身者を積極的に採用することで、強国の仲間入りを果たしていました。

第25代の孝公の時代、一人の英傑が秦に入国します。 その人こそ、秦の天下統一への道筋を開いた商鞅です。 法治という思想を導入し、瞬く間に秦を中華最強国へと変貌させてしまいます。 そして、紀元前350年、秦は首都を咸陽へ移します。 この咸陽こそ、かつての鎬京近郊であり、現在の西安近郊になります。

その孝公の子の代に王を名乗り、孫の昭襄王の代には、魏冄や范雎といった名宰相、 白起という常勝の名将を得たことで、秦は天下統一へと大きく前進します。

そして、その昭襄王の3代後に登場するのが、あの始皇帝です。

NEXT

Copyright © 2008 はとポッポ all right reserved.