西安史②(漢帝国栄光の時代)
---秦の始皇帝---
始皇帝は父が早く亡くなったため、13歳で王位を継承する。
重臣を追放して、親政を開始すると、次々と諸国へ滅ぼし、
紀元前221年、ついに天下を統一します。そして、彼は王号をやめて、皇帝を名乗ります。 すなわち始皇帝となったわけです。 その支配地はベトナムまで及んだといわれています。 統一を成し遂げた始皇帝は、同時に滅亡を早める原因となった大規模工事を多く行います。 最も有名なのは万里の長城でしょう。 他に、鄭国渠と呼ばれる運河の建設も行っています。 が、これらは、まだ防衛に役立ったり、都を潤したりする効果があったので、 まだ許される事業でしょう。 が、始皇帝の愚行の最たるものは、始皇帝陵の建設でしょう。 自分の死後を守る兵隊として、1万近い兵隊の人形を埋葬し、枯れない水として、 水銀の川を作ったと伝えられます。 不老不死を願った始皇帝は、それだけ死後の世界を恐れていたということでしょうか。 この始皇帝陵を守る人形の兵士達は、2200年後に再び太陽を見ることになります。 20世紀最大の発見といわれる兵馬俑の発見がそれです。 また、周りでは水銀が検出され、伝説の記述と思われていたことが2200年後に事実であることが 判明したのです。 ロマンチックですね。 さて、これだけ民衆に負担を強いた代償に、彼の死後に中国史上初の農民反乱が発生します。 この反乱は瞬く間に広がり、秦帝国は一気に崩壊へと向かうのです。
---漢の長安---
この反乱軍の中から二人の英傑が出現します。
項羽と劉邦です。激しく天下を争った二人の戦いは、劉邦に軍配が上がります。 紀元前202年、勝った劉邦は漢帝国の始祖となりました。 そして、都を荒れた咸陽の近くに定めます。 それこそが漢の都長安です。 その漢帝国が全盛を迎えるのが武帝の時代です。 紀元前141年、即位した武帝は西域から匈奴を駆逐し、西域交易の道を切り拓きます。 歴史で習う衛青や霍去病が活躍し、新たに敦煌が中国の一部となったのがこの時期です。 国際都市長安、そしてシルクロードの誕生がここにあるといっていいでしょう。 中国の誇る名著『史記』が誕生したのもこの時代です。 まさに、長安が迎えた第一次全盛期がこの時代です。 が、外征を重ねた武帝の時代は同時に衰退への序章でした。 武帝から数えること8代後、ついに滅亡のときを迎えます。 臣下である王莽が力をつけ、紀元後8年、ついに帝位を簒奪します。 『新』という王朝がここに誕生したわけです。
---後漢の誕生と洛陽遷都---
が、この王莽の王朝は民衆の支持を得られませんでした。
各地で反乱が起こり、長安に乱入した反乱軍によって、王莽はあっけなく殺されます。この反乱軍の中から頭角を現したのが、劉秀、のちの光武帝です。 中国を統一し、後漢王朝を建国した光武帝は、戦乱で荒廃した長安ではなく、洛陽を都と定めます。 その後、しばらく長安は荒廃したまま放置されることになりました。 ちなみに、有名な『漢委奴国王』の金印が授けられたのは、この光武帝の時代といわれています。 中国史の遥かなることを思い知らされますね。 後漢末、悪臣董卓が荒廃した長安へ遷都を強行したことは、三国志を読んだ人ならご存知でしょう。 結局、荒れた長安に長く都が置かれることはなく、再び遷都されることになります。 長安にとっては、暗い時代だったといえそうです。
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