西安史④(唐の衰退と地方都市西安)
---唐の衰退---
唐の全盛期を演出した玄宗は、その後半生に楊貴妃という美女を得たことで、 政治に対する興味を失ってしまいます。 755年、この楊貴妃の一族が権勢を強めていくことに危機感を覚えた安禄山という将軍が反乱を起こします。 この反乱の勢いは凄まじく、首都長安をも陥落させます。

杜甫が『国破れて山河在り』で有名な『春望』を詠んだのはこのときで、 長安を追われた玄宗皇帝の元へ駆けつけようとして、反乱軍に囚われ、 『国が壊れてしまったけれども、山河はそのままだ。』と詠ったわけです。 長安の城壁から、山河を眺めて、詠ったと想像したいところです。

さて、長安を脱出した玄宗皇帝のその後も書いておきましょう。 蜀への道中、兵士達が不満を爆発させます。 こうなった元凶は楊貴妃にあるとして、楊貴妃の処刑を要求。 玄宗は、泣く泣く楊貴妃に死を賜ります。 楊貴妃自身が特に劣悪なことをしたというエピソードは残っていないのですが、 美人ゆえの悲劇ということでしょうか。

失意の玄宗は退位して、息子に帝位を譲ります。 が、これ以後唐がかつての隆盛を取り戻すことはありませんでした。

また、安禄山の反乱から遡ること4年前、タラス河畔の戦いで、 イスラム国家のアッバース朝に敗退し、西域の覇権も失ってしまいました。

日本では東大寺の大仏が建造された頃で、まさに奈良時代の真っ只中という頃のことです。

---唐以降---
9世紀後半には各地で反乱が頻発。 そして、907年ついに唐は滅亡します。 楊貴妃の悲劇から約150年後のことでした。 それと同時に長安の栄華も終わりを告げます。 都は開封などに遷され、その後長安に都が戻ることはありませんでした。

中国北部は五代十国時代の混乱期を経て、宋、金、元、明、清の時代は、 開封、北京、南京といった都市に都が置かれます。

かつての長安が名称を西安と変えたのは、明時代のことです。 また、現在残されている城壁もやはり明時代のものです。

---西安事件---
時代は下って、1936年、再び、西安が歴史の表舞台に押し上げることになる事件が発生します。 西安事件がそれです。

その事件の約20年前に清が滅んだ中国では、国民党と共産党が激しく争っていました。 そうした状況の中、日本軍が徐々に中国への侵略を強め始めます。 これに危機感を覚えた張学良が、国民党の指導者である 蒋介石を突然西安に監禁。 共産党と協力して、日本軍に対抗することを迫ります。 世に言う西安事件です。

これに応じた蒋介石により、ついに共産党との協力体制が築かれます。 国共合作です。 ちなみに、このとき、張学良は国民党の幹部だったのですが、 父を日本軍に殺された恨みからか、共産党よりも日本憎しの思いが強かったのかもしれませんね。

---近代---
時代は更に下り、日本の敗戦後の共産党と国民党の内戦は、共産党に軍配が上がります。

現在はその中華人民共和国の元で、陝西省の省都として、 そして海外から多くの観光客を迎える国際都市として栄えています。 国際都市の意味が少し違いますが、外国人観光客の多くいる西安をみると、 かつて国際都市として栄えた長安を思い出させてくれますね。

また、1974年、20世紀最大の発見とも言われる兵馬俑が発掘されます。 なかば伝説ともされていた史書の記述が史実であることが証明されたのです。 この発見が西安の魅力を高めたことは言うまでもありません。

2011年には地下鉄の開通も予定されており、今後も中国北西地区を代表する都市として 栄えていくことでしょう。

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