西安史③(隋唐の時代)
---仏教文化の幕開け---
暗い時代だったのは、何も長安だけのことではなく、後漢末から中国は長い戦乱の時代へと突入します。
三国時代を経て、西晋王朝によって一旦統一されますが、この王朝は安定せず、316年に内乱につけこんだ
異民族によってあっさり滅ぼされます。
五胡十六国時代の幕開けです。この時代、華北に安定した王朝はなく、年表はほとんどの年が戦いで埋め尽くされています。 そんな時代に、一つの文化が長安で花開きます。 仏教文化がそれです。 華北の君主達は仏教を尊崇することが篤く、多くの名僧が中国へと招かれます。 その中で最も有名なのが、鳩摩羅什でしょう。 前秦の皇帝であった苻堅は亀茲国(クチャ)を攻略し、鳩摩羅什を首都長安へと招きます。 が、運命は変転します。 華北を統一し、いよいよ中国統一へと華南へ兵を進めた苻堅はまさかの敗退。 これが383年のことです。 それをみた華北では各地で反乱し、前秦はいっきに衰退します。 鳩摩羅什も長安入りを断念し、涼州の地に留まることになります。 が、運命は鳩摩羅什を再び長安へ誘います。 その後長安を占拠した後秦によって、再び長安へ招かれたのです。 現在の草堂寺で翻訳に勤しみ、多くの経典を残しました。 その後の、絢爛たる長安の仏教文化は、鳩摩羅什に始まっているといっていいでしょう。 ちなみにこの時代の日本はまだ卑弥呼の時代から、大和王朝黎明期といった時代です。 つくづく中国の歴史は偉大ですね。
---隋による中国統一と崩壊---
さて、その後439年に北魏によって華北が統一されると、中国は南北朝時代に突入します。なかなか終焉をみせない戦乱の世に終止符を打ったのが、 楊堅、すなわち隋の文帝でした。 楊堅が歴史の表舞台に登場した当時、華北を支配していたのは北周でした。 北周の皇帝は暗愚で、人民の支持を失い、代わって支持を集めたのが楊堅でした。 581年、楊堅は皇帝から位を譲られ、隋を建国します。 隋は南征軍を発し、建国から8年後の589年についに南朝の陳を滅ぼします。 後漢末から、長きに渡った動乱の世がついに終焉を迎えたのでした。 長安はその統一王朝の首都として栄えます。 しかしながら、この統一王朝隋も長く続きませんでした。 第二代皇帝煬帝の失政がその原因です。 3度に渡る高句麗遠征強行や大運河建設といった負担に耐えかね、 各地で反乱が頻発します。 煬帝のしたことの中で最も劣悪なことは、こういった事態に対応することを放棄して、 江南へ逃げ出してしまったことにあるといっていいでしょう。 618年、こういった状況に反発した兵士によって、煬帝は殺されてしまいます。 事実上の隋滅亡の年といっていいでしょう。 ちなみに、聖徳太子が小野妹子に『日の出ずる国の天子より』という書簡をもたせたのは、 この煬帝の時代のことです。 高句麗攻略のために、その東にある倭国と仲良くしておきたい事情を見透かして、 より有利な地位を得ようとした高度な外交戦術だったわけです。
---大唐帝国の首都長安---
反乱軍の中から頭角を現したのが、唐の高祖となる李淵でした。
618年に唐を建国すると、息子の李世民の活躍で中国を平定。
中国は再び唐の元に統一されます。
首都はもちろん長安です。第二代太宗の世は貞観の治と呼ばれ、唐は大きく発展します。 西域の高昌国(トルファン)を滅ぼし、その支配下の置いたのもこの頃です。 また、西遊記の三蔵法師のモデルになった玄奘が活躍したのもこの時代です。 インドから大量の経典を持ち帰った玄奘は、その翻訳に勤しみ、中国仏教の発展に貢献します。 その子の高宗の代には、朝鮮南部の百済を滅ぼし、朝鮮北部に君臨し続けてきた高句麗を孤立させます。 百済を復興させるために、日本の中大兄皇子は援軍を送り、白村江の戦いで唐新羅連合軍に大敗した ことはよく知られています。 こうして、後顧の憂いのなくなった唐は、668年に宿敵高句麗をついに滅亡させます。 その高宗の孫の玄宗皇帝の時代に唐は絶頂期を迎えます。 国際都市長安が最も輝いたのがこの時期といっていいでしょう。 李白、杜甫といった素晴らしい詩人を生み出します。 当時の長安がいかに国際色豊かであったかは、李白の詩にもあらわれています。 『少年行』という詩に『笑って入る 胡姫の酒肆の中』とあり、 すなわちイラン系の美女がいる酒場にがやがやと押し寄せていく少年達を歌っています。 なんとも、詩的情緒に溢れた街だったことでしょうか。
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