ベトナム史④(第一次インドシナ戦争~現代)
---第一次インドシナ戦争---
第二次世界大戦で、フランスがナチスドイツに敗れると、
ドイツの同盟国である日本がベトナムに進出します。
が、日本は大戦に敗れたために、その支配は長く続きませんでした。そして、再びフランス軍が侵攻してきます。 その一方で中国の支援を受けた ベトナムの英雄ホーチミン が北部からベトナムに入り、解放運動を開始しました。 長いベトナム戦争の始まりはここにあるといっていいでしょう。 植民地を維持しようとするフランスはこれに対抗します。 アメリカもそれを支援。 ホーチミンは中国の支援を受けていましたので、 彼の独立運動はそのまま 冷戦の構図へと繋がっていったわけです。 フランスは圧倒的戦力で北部地域を制圧。 戦争はすぐに終結するかに思えましたが、北ベトナムを支持する 人々はゲリラ戦を展開。 戦争は長期化します。 そして、1954年。 ディエンビエンフーの戦いが勃発します。 この戦いでフランスは大敗。 同年、和平協定が成立し、ついにフランスは インドシナから完全に撤退します。
---ベトナム戦争---
が、時代はそのままベトナムに平和が訪れることを許しませんでした。
共産主義勢力の伸張になることを嫌ったアメリカは
南ベトナムをそのまま存続させ、南北分裂は続くことになりました。これに反発する南ベトナムの民衆は抵抗運動を開始します。 これがベトナム戦争の始まりとなりました。 これは南ベトナムの大統領ジェムの失政の影響も大きかったようです。 アメリカはその南ベトナムを積極支援。 空爆や枯葉剤といった、この戦争の悲劇はよく知られている通りです。 が、泥沼化した戦争は、アメリカ本土でも反戦の気運を高め、 アメリカは徐々にベトナムからの撤退を始めます。 そして1975年4月30日。 ついに北ベトナム軍によりサイゴンが陥落 します。 サイゴン、今で言うホーチミンシティです。 ついに南北が統一されたわけです。
---中越紛争---
その後のベトナムに絡む紛争はあまり知られていないように
思いますが、ベトナムはその後すぐに平和が訪れたわけでは
ありませんでした。ベトナム戦争の際に、支援を受けた 中国との紛争がそれです。 間接的な原因は、当時深刻化していた中ソ対立です。 ベトナム戦争の最中、ソ連と対立していた中国は、 ベトナムの敵国アメリカに接近します。 1972年、アメリカのニクソン大統領が訪中。 ベトナムがそれを快く思うはずがありませんね。 そしてもう一つ。 親中国派の筆頭だったホーチミンが1969年に死去したことも 大きかったようです。 政治の必然の流れとして、ベトナムはソ連と接近。 中国とベトナムは関係が悪化します。 そんな中、隣国カンボジアでポル・ポト による共産政権が誕生します。 が、このポル・ポト政権は国民に対する厳しい弾圧を加えます。 東洋のヒトラーの異名をとる原因がこれです。 特にベトナム系住民に対する弾圧がひどかったんですね。 これに反発したベトナムは、ポル・ポトに対するクーデターを 企てて失敗したヘン・サムリンを支援する形で、1978年 カンボジアに侵攻します。 そのベトナムをソ連が支援。 それに対して、中国はポル・ポトを支援します。 結果的に、国民に支持を失っていたポル・ポトは敗退。 よく知られているようにゲリラ化していきます。 ただ、その後も、ベトナム軍がカンボジアに駐留し続けた ことは国際社会から強い批判を受けることになりました。 このカンボジア紛争で、 中国とベトナムの関係は冷え込みます。 1979年、中国はベトナムに侵攻します。 ベトナムはこの侵攻をよく防いで、ついに中国は撤退を決断します。 が、その後も何度も武力衝突を繰り返すことになりました。
---現代---
ソ連がペレストロイカを断行すると、ベトナムでも改革を目指す
動きが広がります。
1986年、ベトナムはドイモイ政策へと舵をきり、
西側諸国や中国との関係改善を図ります。1989年には、カンボジアから撤退。 1991年には中国と国交正常化。 さらに1995年にはベトナム戦争を戦った相手、 アメリカとも国交を正常化します。 そして、今、BRICsに次ぐ存在として、 経済の発展が世界の注目を浴びるまでになっています。 観光分野では、東南アジアでタイと並ぶ人気国。 ベトナム人のエネルギーを感じますね。
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