ベトナム史③(阮朝成立~フランス進出)
---阮朝成立---
黎朝は不安定なために、王家に力はなく、 家臣が大きな力を持っていました。 その中でも、最大の勢力をもっていたのが、 阮氏と鄭氏でした。 鄭氏が北部ベトナムを、阮氏が中部ベトナムを それぞれ実効支配する時期が長く続いていました。

中部ベトナムの阮氏は南進を続け、ついに南部ベトナムを 支配するに至ります。 本来の支配者であるカンボジアのクメール王国は、タイのアユタヤ王国に 圧迫されて、それを防ぐ力は残っていなかったのですね。

黎朝成立から約350年後の1771年。 中部ベトナムで大規模な反乱が起きます。 この反乱の勢いは凄まじく、阮氏を滅ぼした余勢を駆って北上。 さらに鄭氏を滅ぼし、1786年に新たに王朝を建てます。 黎朝は約350年の歴史に幕を閉じたわけです。

が、この新王朝はあっけなく崩壊します。 反乱を起こした一族同士で争ったことが原因です。 が、敵は意外な相手でした。 滅ぼしたはずの阮氏に生き残りがいたのです。 その生き残りである阮映がタイとフランスの援助を受けて、 1802年に反乱軍を打倒して、建国します。 それがベトナム最後の王朝となる阮朝です。

阮朝は統一王朝で初めて、首都をフエに定めます。 現在フエに残る王宮はこの王朝によって建設されたものです。

ところで、今何気なくタイと書きましたが、 これはアユタヤ王朝のことではありません。 その35年前にタイの西のビルマによってアユタヤ王朝は滅んでいます。 タイもすでにかつての栄光を失って いたのです。

そして、阮朝がフランスの援助を受けて成立したことは、 ヨーロッパ列強によるインドシナの植民地化の影が忍び寄って いることの証でもありました。

ヨーロッパは革命の嵐が吹き荒れ、英雄ナポレオンが登場し、 その地図が大きく変わろうとしていた時期です。 日本は、というと、吉宗の3代後の家斉の時代でした。

---フランスの進出---
阮朝はフランスの援助を受けて成立したこともあって、 当初は両国は友好的な関係にありました。 が、2代目の明命帝が鎖国政策に転じ、 キリスト教を弾圧したことで、 関係が悪化します。

1858年、ついにフランスはダナンを砲撃。 阮朝はこれに抗することができず、開国 を余儀なくされ、さらには南部ベトナムを失うことになりました。

さらに、1882年にはハノイを占領。 実質的にベトナムはフランスの植民地 となります。

本来宗主国である清朝はベトナムの宗主権を巡ってフランスと対立。 1884年、清仏戦争が勃発します。 この戦争に敗れた清朝は、宗主権を放棄。 ここに名実共に、ベトナムはフランスの植民地となったわけです。

日本は明治維新を経て、近代国家へと変貌をとげようとしていました。 アジアの覇者、中国の清朝はアヘン戦争、清仏戦争と立て続けに 敗戦し、ヨーロッパ列強による侵略を受けるようになっていました。 一方のフランスは、といえば、普仏戦争に敗れてナポレオン3世が退位。 共和制へと移行していました。

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