ベトナム史②(北部ベトナムの独立~チャンパ滅亡)
---北部ベトナムの独立---
907年、アジアに激震が走ります。
約300年続いた中国の大帝国、
『唐』の滅亡がそれです。
それから約50年間、中国は五代十国という長い混乱期を迎えます。その混乱がベトナムにも波及します。 939年、呉権という人物が王を名乗って、ついに北部ベトナムが 独立を果たします。 が、この政権は長続きせず、約30年で滅亡しました。 北部ベトナムに安定政権が誕生したのは、1010年。 李公蘊という人物が李朝を興します。 このとき、都となったのが、現在のハノイです。 この時期には昇龍(タンロン)と呼ばれていました。 南のホーチミンと違って、1000年もの歴史をもつ古い街なんですね。 ちなみに、この頃日本では、源氏物語が成立。 平安文化が大きく花開いた時期でした。 ---モンゴル侵攻---
北部ベトナムの李朝、中部ベトナムのチャンパ、カンボジアのクメールは
三つ巴の争いを繰り広げました。
特にチャンパとクメールは宿敵というべきで間柄で、
大規模な戦争を繰り返します。そんな中、はるか北の地方で世界史を揺るがす出来事が発生します。 モンゴル帝国の誕生です。 同時期に北部ベトナムで政変があり、李朝から陳朝へと変わります。 この陳朝がモンゴルの侵攻を受けることになります。 膨張を続けるこの帝国は当時中国を支配していた金と宋という 二つの国を滅ぼし、1282年、ついにベトナムへ迫ります。 これに対して、ベトナムは敵同士であったチャンパと陳朝が 連携してモンゴル軍を撃退。 モンゴル軍に負けなかったのは、日本とベトナムくらいで、 ベトナムは海に囲まれてるわけでもないのですから、凄い話です。 日本への2度目のモンゴル侵攻(元寇)である弘安の役の翌年の話です。
---アユタヤ王朝の興隆---
モンゴル侵攻に対して、連携したチャンパと陳朝ですが、
その後再び争うようになります。
それがお互いの消耗を誘い、衰退していきます。一方、その頃中国では、モンゴルが建てた元が内乱で衰退。 1368年、代わりに明という大きな帝国が誕生します。 チャンパと陳朝が争うのを明が黙ってみているはずもなく、 1407年明の介入を招きます。 その7年前に胡氏が政権を奪取していた北部ベトナム、 そして中部ベトナムのチャンパともに、 滅亡。 再びベトナムは中国の支配を受けることになります。 この頃、ベトナムの西でも勢力図に変化が起きます。 それまで、ベトナムとインドシナの覇権を競っていた カンボジアのクメール王国の繁栄が終わりを迎えます。 その更に西のタイに興ったアユタヤ王朝 の圧力に耐えられなくなったのです。 1431年、ついに首都アンコールを放棄。 インドシナの覇権は アユタヤ王朝へと移ることになります。 日本は応仁の乱の約30年前。 室町幕府が最も安定していた時期です。
---ベトナム動乱の時代---
クメール王朝がアンコールを放棄する少し前の1428年、
北ベトナムで黎利という人物が皇帝を称します。
結局、明の統治は失敗したわけです。
ベトナムは約20年で独立を回復したわけです。こうして成立した王朝が黎朝です。 同時期に一旦復興したチャンパも、結局この新生北ベトナムによって 1471年に滅ぼされます。 こうして中部ベトナムまでその手中に収めた黎朝ですが、 その基盤は過去の二王朝に比べて、早くに弱体化します。 政治の実権は家臣に奪われ、国内は長く動乱が続きました。 日本も戦国時代、最大の動乱期を迎えていました。 世界的な動乱の時代といってよいのかもしれません。
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