ベトナム史①(チャンパの勃興)
---中国支配下の北部ベトナム---
ベトナムという国が現在の形を成したのは、実は歴史的にみれば、 かなり最近のことです。 長く、 北部、中部、南部で、別の国 として存在してきました。 それぞれ別々にみていくことにします。

その中で、北部は中国の影響 を大きく受けて、文化的に最も発展していました。 北部については、実は中国の歴史にもよく登場します。 南越国とか越南とか書かれるのがそれです。

また、実は三国志にも登場します。 コーエーのゲームをやったことにある方はご存知かもしれません。 士燮という名で登場する人物がベトナムに君臨した王だったのです。 ゲームでは寿命だけが素晴らしく、能力はそんなにぱっと しない人物ですが(笑)。

が、この士燮の国も、彼の死後、それを待っていた呉の孫権によって 滅ぼされます。 中国からみれば、辺境の地のベトナムを何故狙うのか、 といえば、この地が交通の要所で、 インド等との南海貿易で 大いに栄えていたからでした。

そのために、紀元前3世紀の秦の時代から長く中国の支配を 受け続けることになります。 何度か大きな反乱(徴姉妹の反乱が有名)があるものの、 実に約1100年もの長きに渡って中国の支配は続きました。

ちなみに日本が中国の歴史書に初めて登場するのは、後漢書。 ベトナムに遅れること約300年です。 ベトナムの方が早く文明圏に組み込まれていたわけです。

---中部と南部ベトナム---
1世紀、現在のベトナム南部に扶南という国が誕生します。 この国は中国よりもインドの影響 を色濃く受けた国で、サンスクリット語を使用し、 ヒンドゥー教が信仰されたといわれています。 貿易で大いに栄え、その版図は広くカンボジアまで及びました。

それより少し遅れて、2世紀。 ベトナム中部で反乱が起きて、この地域が中国から独立を果たします。 ミーソン遺跡を残したことで有名な チャンパ王国がそれです。

この国は中国の影響を受けながら、南の扶南王国の影響で、 インドの影響も受けるようになります。

一方、ベトナム南部の扶南王国は6世紀ごろにカンボジアに興った 真臘という国によって、滅ぼされてしまいます。 この真臘こそ、またの名をクメール王朝やアンコール王朝といい、 あのあまりに有名な アンコール・ワットを築いた王朝です。 以後、ここではクメール王国で通すことにします。

ベトナム中部のチャンパ王国はこのクメール王国と熾烈な争いを 繰り広げることになるのです。

日本の卑弥呼は3世紀の人物。 扶南王国やチャンパ王国の成立のほうが早いんですね。 また、扶南王国滅亡は、日本でいえば聖徳太子の時期になります。

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