トルコ史⑨(近代史)
---青年トルコ革命と第一次世界大戦---
オスマン帝国は西欧からの遅れを取り戻すべく、改革に着手します。
1876年、オスマン帝国憲法を発布。
西欧的改革を断行します。が、その後を継いだスルタンは、その施行を中止。 帝国の青年将校たちの間に、その不満が募ります。 そして、1908年、青年将校たちによるクーデターが発生し、その鎮圧を断念した スルタンは要求どおり、憲法を復活させます。 青年トルコ革命です。 こうして近代化を推し進めたオスマン帝国ですが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、 ロシアを敵として、ドイツ側で参戦します。 結果は、よく知られているとおりです。 同盟国側は敗退。 帝国は連合国に分割占領されます。
---トルコ革命---
連合軍による占領に反発する抵抗運動が各地で勃発。
列強を恐れる帝国は、第一次世界大戦の英雄ムスタファ・ケマルを派遣して、
抵抗運動の沈静化を図ります。が、1919年4月、サムスンに上陸したケマルは逆に抵抗運動の指導者として、立ち上がります。 それに対して連合国側も再度イスタンブールを占領して、オスマン帝国とセーヴル条約を結びます。 これは、帝国の領土の大半をギリシアやアルメニアに割譲した上、首都イスタンブールは 連合国の管理下に置かれるという非常に厳しいものでした。 これに反発したケマルらは、アンカラで大国民議会を開催して、 ケマルを指導者とするアンカラ政府を結成します。 この時期ギリシア軍がアンカラ近郊に迫っていましたが、ケマルは 自ら軍を率いてこれを撃破。 さらに西側の都市イズミルを奪還し、ギリシア軍をアナトリアから駆逐します。 さらにケマルはこれを機に、スルタン制の廃止を図り、1922年11月、大国民議会でそれを決議させます。 アンカラ政府と敵対して、既に国民の支持を失っていたスルタンは亡命を余儀なくされ、 約600年あまりの栄華を誇ったオスマン帝国はついに滅亡したのです。 この状況をみた連合国は先のセーヴル条約を破棄し、アンカラ政府と新たにローザンヌ条約を締結。 こうして、トルコ共和国の独立が承認され、先の条約のような 大幅な領土縮小の条項を撤廃し、さらにはオスマン帝国時代に結ばれた不平等条約も 撤廃させることに成功したのです。 こうしてトルコ革命を成功に導いたケマルは トルコの父を意味するアタチュルクと呼ばれることになります。 今はイスタンブールの空港名にもなっていて、旅行者にも馴染み深い名前になっています。
---キプロス問題とEU加盟問題---
ケマルは初代大統領となり、国政改革を実行します。
政教分離、ローマ字の採用、女性参政権などがそれです。
ローマ字の採用は、我々旅行者には非常にありがたい話ですが、元々トルコ語とアラビア文字の
相性がよくなかったということが背景にあったようです。アタチュルクは1938年に57歳で死去。 が、現在もトルコ国民に愛され続けている英雄となりました。 トルコは第2次世界大戦中は、終盤に連合国の圧力によって参戦するまで、 中立の立場を守りました。 さて、大戦後、トルコの南の地中海に浮かぶ島、キプロス島が 政治の舞台に上がってきます。 当時、イギリス統治下だったこの島には、ギリシア系住民とトルコ系住民がおり、 ギリシアはギリシアへの併合を主張し、トルコはギリシアとトルコへの分割併合を主張しました。 その結果、折衷案として、キプロスの独立が合意されました。 が、1974年、キプロスでギリシア併合派による軍事クーデターが発生。 これに対し、トルコはトルコ系住民の保護を名目に北キプロスを占領。 翌年、キプロス連邦トルコ共和国、通称北キプロスを発足させ、 南のキプロス政府に対し、連邦制による再統合を要求。 しかしながら、統合は進まず、トルコ政府は北キプロスのみ国家として承認し、 キプロス政府を国家として承認していない状況が続いています。 が、このことが、トルコの外交に大きな影を落とすことになりました。 というのも、2004年にキプロスはEUに加盟。 トルコ政府がEU加盟を目指すにあたって、トルコ政府がキプロスを国家として承認していないことが 大きな壁となっているのです。 現在、トルコ政府は、EU加盟のため、両キプロス政府の統合に向けた努力を続けているようです。 それとは別に、現在トルコは大きな経済発展を遂げており、経済界でその存在感を増しています。 また、過去2度軍部によるクーデターが実施されるなど、軍部の力が強いといわれていますが、 2010年に軍の介入を抑える憲法改正案が国民投票で可決され、その点も改善されようとしているようです。 次は経済界で、トルコの脅威が高まる日は、案外近いかもしれませんね。
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