トルコ史⑧(オスマン帝国の時代)
---オスマン帝国全盛期---
コンスタンティノープルを陥落させたメフメト2世は、都市の名を イスタンブールと改称し、首都をその地へ移転します。 そして、多くの協会をジャーミィ(モスク)へと作り変えます。 東ローマ帝国時代の名建築物アヤソフィアもその一つでした。 この建物は、20世紀に漆喰の下からモザイク画が発見されるまで、ジャーミィとして生き続けることになります。

その一方で、人望の厚い修道士を正教会の総主教に任命して正教徒を懐柔するなど、 イスラムを強制することはなく、宗教に対しては寛容な政策をとりました。

また、都市を攻略した際に許可されるのが通例である略奪についても、ほとんど許さず、 その結果として、東ローマ帝国時代のいろんな遺産が残ることになったのは、 後世の人間としてはありがたい限りです。

オスマン帝国はその後も拡大を続け、1516年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、 その地を手に入れます。

さらに、スレイマン大帝の時代には、モハーチの戦いで欧州の強国 ハンガリー王国を撃破し、ハンガリー国王は戦死。 新たな国王を立て、事実上ハンガリーの領土をもその大半を手中に収めます。

が、そのハンガリーの王位継承権を主張する国家が現れます。 巧みな婚姻政策により、当時の西欧で最も勢力をもっていたハプスブルク家の治める オーストリアです。

モハーチの戦いから3年後の1529年、スレイマン大帝はついにオーストリアを壊滅させるべく、 兵を西に進めます。 そのままオーストリアの首都ウィーンを包囲。 これが第1次ウィーン包囲です。 冬の到来で、攻略そのものは失敗に終わりますが、この包囲によってハンガリーの大半の 支配を確立します。

さらに海軍力の増強にも力を入れ、海賊バルバロス・ハイレディンを帰順させると、 その力をもって、それまで地中海の制海権を保持していたヴェネチアやジェノバから、 全地中海の制海権を奪います。

東欧を完全に手中に収め、東はイラン西部、南はエジプトまで支配する大帝国を築き上げたのです。 事実上、16世紀はオスマンの世紀といっていい時代でした。

---帝国の衰退---
最盛期は、衰退の始まりでもあります。 1571年、レバントの海戦でスペイン艦隊に大敗を喫します。 受けたダメージは大きくなく、相変わらず地中海の制海権を保持し続けたようですが、 オスマン再興以来初めて喫した大敗であり、衰退の予兆だったといっていいでしょう。

1683年、オスマン帝国の衰退を決定付ける出来事が発生します。 約150年ぶりにオーストリアへの侵攻を開始。 その首都ウィーンを包囲します。 第2次ウィーン包囲です。

これに対して、ハプスブルク家の皇帝はウィーンを脱出。 諸侯に援軍を求めます。 これに応じたポーランド軍が、陥落目前のウィーンに現れ、オスマン軍と激突。 ヨーロッパの強国のひとつであったポーランドの軍勢の前にオスマン軍は大敗。

この敗戦をきっかけにオスマン帝国はハンガリーを失い、これ以後、東欧の覇権は ハプスブルク家に移ることになります。

この頃、東アジアでは、明が滅び、北から清が侵攻して中華と統一。 第4代康熙帝のもと、大きく発展を遂げようとしていました。 一方、日本は江戸時代に入り、生類憐みの令で有名な第5代将軍徳川綱吉の時代になっていました。

---ロシアの南下---
18世紀に入ると、北方のロシアが勢力を大きく拡大させます。 黒海沿岸へ勢力を拡大させたロシアとオスマン帝国がぶつかるのは時間の問題でした。 1736年の露土戦争を皮切りに、幾度となく戦争を繰り広げることになります。

この紛争は、オーストリアがロシアに味方したこともあって、 徐々にロシア側に有利に働いていきます。

そうしてロシアの圧力が強まる中、次は足元が揺るぎます。 1821年、ギリシア独立戦争が勃発。 ロシアの後援もあって、ギリシアは独立を果たします。

さらに1831年、次はエジプトが反旗を翻します。 英雄ムハンマド・アリーに率いられたエジプト軍は連戦連勝。 ついに、独立を勝ち取ります。

他にもバルカン半島の諸民族が次々と独立。 ロシアの南下も止まらず、領土は次々と縮小。 『瀕死の病人』と揶揄される事態にまで陥ります。

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