トルコ史⑦(東ローマ帝国の滅亡)
---ティムールの侵攻---
こうして西に大きく勢力を広げたオスマン朝は、群雄の割拠する東のアナトリアへも勢力を広げようとします。 このときにアナトリアの諸侯が頼ったのが中央アジアの英雄ティムールでした。

ティムールは、瞬く間にイランを征服し、さらにアフガニスタンまで支配する大帝国を一代で築き上げます。 東へ勢力を拡張したことで、この大帝国と接したオスマン朝は、必然の流れとしてこの帝国と対立します。

1402年、アンカラの近郊で両軍は激突。 両軍合わせて約30万という大軍同士の激突となったこの戦いは、ティムールに軍配が上がります。 雷帝と呼ばれて恐れられていたオスマン朝の皇帝バヤズィト1世は捕虜となり、 オスマン朝は一時滅亡することになります。

一方、ティムールはその2年後死去し、彼の帝国はその後瓦解へと向かうことになります。

その隙をついて、オスマン朝は再び勢力を盛り返します。 こうして勢力を盛り返したオスマン朝の圧力によって、東ローマ帝国の領土はついに首都コンスタンティノープル 近郊のみとなっていました。 紀元前から続くローマ帝国に最後のときが迫っていました。

この時期、中国では、元が滅亡し、新たに明が建国され、第3代永楽帝のもと、最盛期を迎えつつあった時期です。 また、日本は室町幕府の第3代将軍足利義満のもとで、これも室町幕府が最盛期を迎えた時期でした。

---コンスタンティノープルの陥落と東ローマ帝国の滅亡---
オスマン朝再興から2代後、第7代スルタンとなった メフメト2世はついにコンスタンティノープル攻略を決意します。

まず、マルマラ海から黒海に抜ける狭い海峡であるボスポラス海峡にルメリ・ヒサル という要塞を建造。 この立地はコンスタンティノープルから金角湾を挟んで10kmの位置であり、狭い海峡の交通を制する 立地でもあり、コンスタンティノープルからすれば、まさに喉元に刀を突きつけられたような要塞でした。

これに対し、東ローマ帝国側もただ手をこまねいていたわけではありませんでした。 西欧諸国からの援軍を得るため、ギリシア正教会を ローマ・カトリック協会に統合させることを宣言したのです。 カールの戴冠以来徐々に対立を深めていった両協会は、第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻略により、 決定的に関係を悪化させていました。

ギリシア正教会こそ正統であると自認する東ローマ帝国側にとって、統合の宣言は、 まさに苦渋の決断であり、最悪の譲歩案といっていいものでした。

が、その譲歩をもってしても、西欧からの援軍は得られず、虚しい外交努力に終わってしまいました。 それどころか、国内では、「枢機卿の四角帽を見るくらいなら、スルタンのターバンを見るほうがましだ。」 との声も聞かれる有様で、国内の亀裂を生む結果となってしまったのです。 これは、カトリック教会よりも、オスマン帝国のほうが宗教に対して寛容であるということが背景にあるようです。

1453年、オスマン帝国10万の大軍がコンスタンティノープルを包囲します。 しかし、東ローマ帝国の内乱が絡んでいた第4回十字軍のときを除いて、あらゆる外敵を退けてきた 難攻不落の要塞を誇るコンスタンティノープルの攻略はたやすいものではありませんでした。 東ローマ帝国側は、防衛の生命線ともいえる金角湾にトルコ艦隊が入られないように、 入り口を鎖で封鎖して対抗します。

この状況を打破すべく、オスマン帝国は奇策を実行します。 それこそ、世に名高い『オスマン海軍の山越え』です。

ガラタ地区の北側の丘の上に、木のレールを敷き、そのレールの上に船を滑らせて、 金角湾に海軍を滑り込ませたのです。 この奇策の成功をきっかけに戦況は大きくオスマン側に傾き、 包囲開始後から約2ヶ月後の1453年5月29日に、ついに陥落します。

この戦いで東ローマ皇帝は戦死。 帝国は滅亡します。

初代ロムルスによる王政ローマの建国が紀元前753年とされていますから、約2200年間続いた国がついに滅亡したわけです。 コンスタンティヌス帝によるコンスタンティノープル建設から数えても約1100年。 まさに一時代の終わりを告げる出来事でした。

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