トルコ史⑥(モンゴルの襲来とオスマン朝の誕生)
---モンゴル襲来---
第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領から2年後の1206年。
東アジアに誕生したひとつの国家が世界地図を大きく塗り替えることになります。
その国家こそモンゴル帝国です。セルジューク朝が滅んだ後のイランで、この時期に最盛期を迎えていたのが、 ホラズム・シャー帝国です。 イランからアフガニスタン、中央アジアまで支配する大帝国で、 同じくこの時期に東アジア最強の国へと成長したモンゴル帝国との激突は時間の問題でした。 モンゴル帝国の破竹の勢いは、この中央アジア最強国すら、やすやすと滅亡に追い込みます。 勢いにのるモンゴル軍は、さらに西進し、アナトリアへと迫ります。 1243年、アナトリア北部でルーム・セルジューク朝の軍は、モンゴル軍に大敗を喫し、 モンゴル帝国の属国と化します。 その支配力は弱まり、アナトリアは小国乱立の時代に突入します。 ただし、実際にルーム・セルジューク朝が滅亡したのは、それから65年後の1308年のことです。 勢いがとどまることを知らないモンゴル帝国は、第4代モンケが弟のフレグを司令官とする 征西軍を派遣します。 標的はアッバース朝のカリフがいる大都市バグダードでした。 カリフが実権を失って久しいですが、スルタン位がセルジューク朝、ホラズム・シャー朝と移ってもなお アッバース朝のカリフは存続し続けていたのです。 モンゴル軍が迫る中、アッバース朝のカリフは徹底抗戦を決断します。 が、衆寡敵せず、バグダードは陥落。 名実ともにアッバース朝は滅亡します。 さらにフレグはシリア、エジプトに侵攻しますが、皇帝モンケの死によって、引き揚げを余儀なくされます。 が、フレグはモンゴルに戻らず、1260年にイランにて政権を樹立。 それがイルハン朝です。 この他にも、各地にモンゴルの地方政権が誕生し、これらの諸王朝はお互いに結んだり争ったりすることになり、 モンゴル帝国は分裂します。 イルハン朝は、その後イスラム化し、イスラム王朝として大いに栄えることになります。 中国では、金がモンゴルに滅ぼされ、南宋もモンゴルの脅威にさらされている時代です。 日本は、鎌倉時代に入り、源氏の正統は途絶え、北条氏による執権政治が行われている時代になります。
---オスマン朝の誕生---
1299年、アナトリアの地で小さな国家が誕生します。
それこそが、後の世界的大帝国に成長するオスマン朝です。第2代オルハンの時代に、ブルサを占領し、ここを首都に定めます。 さらに、東ローマ帝国の内乱に介入。 同盟を結んだヨハネス6世をその軍事力で皇帝に擁立、さらにそのライバルを後援したセルビア王国の軍を破ります。 このことが、後にバルカン半島へ急拡大する伏線になったと言われています。 セルビア王国はこの時期に最盛期を迎え、東ローマ帝国にとって大きな脅威を与えるまでになっていましたが、 これ以後オスマンの侵攻によって、徐々に衰退していくことになります。 オスマン朝は、その後も東ローマ帝国の内乱に介入し、その代償として様々な見返りを得ます。 そうして、東ローマ帝国は、オスマン朝の属国と化します。 また、セルビア王国やブルガリア帝国を滅ぼし、その地を支配下に収めます。
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