トルコ史⑤(十字軍の時代)
---第1回十字軍---
セルジュークに圧迫された東ローマ帝国皇帝はローマ教皇に救援を依頼します。 教皇が聖地エルサレムの奪還を訴える演説をしたことで、現在にまで尾を引く歴史的出来事を引き起こします。 それこそが十字軍の遠征です。

正直にいって、この十字軍ほどの歴史的愚行は少ないと私は思うのですが、どうでしょうか。 聖地の解放という看板に比べて、その実際の行動のなんと愚かしいことか。

確かに宗教的動機から参加した人が大半だったと思いますが、東方の富にひかれて欲望から参加した人が 少なからずいたのも事実です。 繰り返しますが、当時世界の富の中心は間違いなくイスラム世界であり、 都市としてはセルジューク朝の首都バグダードで、当時の西欧の人が憧れる世界がそこにあったのです。

さて、話を戻しましょう。

十字軍は東方へ進軍を開始しますが、統制の取れていない部隊も多くあり、 そういった部隊は進軍経路となった東ローマ帝国内で略奪を働きます。 このことが東ローマ皇帝の不信を買い、後に十字軍と対立する原因となります。

当時、アナトリアを治めていたのは、セルジューク朝の分家であるルーム・セルジューク朝で、 本家から半独立状態の勢力を保っていました。 十字軍はそのルーム・セルジューク朝の首都ニカイアを占領。 ルーム・セルジューク朝は首都を現在のコンヤに移転します。 コンヤにセルジューク時代の建造物や遺跡が多く残るのはそのためです。

さらに1099年に、聖地エルサレムを征服して、その目的を達します。 十字軍はシリア・パレスチナ沿岸に自らいくつかの国家を建設。それが十字軍国家です。

東ローマ帝国にしてみたら、故地回復のために救援を依頼したのに、その故地に国家を建設されたわけで、 まさに飼い犬に手を噛まれた形で、気分のいいはずがありません。 この後、東ローマ帝国はこれらの国家群と対立していくことになります。

---第4回十字軍とコンスタンティノープルの陥落---
1141年に西遼(カラキタイ)と戦って敗れたセルジューク朝は一気に衰退。 1157年に滅亡します。 が、アナトリアに勢力をもつルーム・セルジューク朝はその後も存続し、12世紀後半には単独で 東ローマ帝国を破るまでに勢力を拡大します。 コンヤはその首都として栄えます。

さて、十字軍です。 その後第2回、第3回と遠征が行われますが、十字軍に不信をもつ東ローマ帝国はこれらに協力することは ありませんでした。 そのことが、東ローマ帝国に悲劇をもたらします。

1201年、新たな十字軍が編成されます。 それこそが悪名高い第4回十字軍です。 この軍はイタリアのヴェネチアの支援を受けることになっていたのですが、そのヴェネチアに支払う お金が不足し、その穴埋めにあろうことか同じキリスト教国のハンガリー王国の都市を攻め落として、 ヴェネチアに進呈したのです。

さらにその後、皇位継承争いに敗れた東ローマ帝国の皇子がヴェネチアにやってきて協力を求めたことで、 十字軍は本来の目的から完全に逸脱した行動をとることになります。 この亡命皇子の求めに応じて、十字軍は東ローマ帝国の首都 コンスタンティノープルを攻略、ついに陥落させます。

が、東ローマ帝国には、その見返りを支払う余力はなく、新しく即位した皇帝と十字軍の関係は 悪化していきます。 そうして、コンスタンティノープルは再び十字軍の攻撃を受けることになります。 今度の攻撃の際には、激しい略奪も行われ、コンスタンティノープルは大きく破壊されてしまいます。

十字軍は、新たにラテン帝国を建国し、東ローマ帝国の旧領をそのまま支配しようとします。 が、カトリックを強要したり、ギリシア人を冷遇するなど、ギリシア人の不満が高まり、 支配はうまく進みませんでした。

そういった状況の中、東ローマ帝国の亡命政権であったニカイア帝国は、1261年に コンスタンティノープルを奪回し、ラテン帝国は滅亡します。 こうして、約60年ぶりに東ローマ帝国が再興されることになったのです。

さて、この頃のアジアは、と見渡すまでもなく、東アジアで起こった出来事が、 トルコ史に大きな影響を与えることになります。 それは次項でみていきましょう。

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