トルコ史④(トルコ人の出現)
---東ローマ帝国の中興---
カールの戴冠の時期、東のイスラム帝国も最盛期を迎えていました。
ウマイヤ朝から代わったアッバース朝は、建国早々に唐をタラス河畔の戦いで破り、シルクロードを支配下に治めます。
この王朝はアラブ人だけでなく、すべてのムスリム(イスラム教徒)を平等に扱い、
国際交易を促進した結果、その首都バグダードは人口150万を超える大都市へと成長しました。また、北方のブルガリア帝国も最盛期を迎え、度々東ローマ帝国を侵略し、マケドニアを奪い、 さらにはアドリア海にまで領土を拡大していました。 が、栄華盛衰、これらの帝国の栄華も長くは続きませんでした。ブルガリア帝国は長年の戦争で疲弊して衰退。 アッバース朝は、内乱で疲弊し、アミールと呼ばれる各地の総督に実権を奪われていきます。 そういった隣国の状況を好機として、東ローマ帝国は再び盛り返します。 その中興をもたらしたのが867年に成立したマケドニア王朝です。 1018年に宿敵ブルガリア帝国を滅ぼして、バルカン半島を手に入れ、 大帝ユスティニアヌス1世時代から縮小を続けてきた東ローマ帝国は、久々に大きな版図を得ます。 文化的にも大きな飛躍を遂げ、マケドニア朝ルネサンスとも呼ばれる隆盛を迎えます。 この時代の首都コンスタンティノープルは間違いなくキリスト教世界の中心都市でした。 といっても、この時代はイスラム最盛期で、アッバース朝の首都バグダードや後ウマイヤ朝の首都コルドバ(現在のスペイン)は それ以上の繁栄だったようですが。
---セルジューク朝の誕生---
さて、これまでトルコの歴史といいながら、実はその主役はトルコ人ではありませんでした。
が、ついにトルコ人が歴史の表舞台に現れます。
中央アジアのセルジューク家の族長トゥグリル・ベクがその主役です。現在のイラン北東部に本拠を置いたトゥグリル・ベクは、アフガニスタンや中央アジアに大きな勢力をもっていたガズナ朝を撃破。 この地を中心に勢力を拡大します。 また、スンニ派のムスリムでもあった彼は、スンニ派の擁護者であったアッバース朝のカリフに忠誠を誓い、 カリフに招かれる形でバグダードに入城します。 この時期のアッバース朝のカリフは、アミールと呼ばれる各地の総督に実権を奪われていました。 特にイラン・イラク地方を任されたブワイフ朝のアミールは、大アミールと呼ばれ、強大な権力をもっていました。 ブワイフ朝の大アミールはシーア派のムスリムであり、スンニ派の擁護者であったアッバース朝のカリフは 大きな脅威を受けていたために、その庇護者を求めていたわけです。 カリフは大アミールに対抗して、スルタンの称号をトゥグリル・ベクに与えます。 カリフとスルタンの関係は、キリスト教世界における教皇と皇帝の関係、または日本における天皇と将軍の関係を思えばいいでしょう。 カリフの権威をもって、スルタンの権力を保証したわけです。1055年のことです。 拡大を続けるセルジューク朝は、1071年についに東ローマ帝国と激突。 皇帝を捕虜にする大勝利を収めます。 この戦いにより、アナトリア(現在のトルコのアジア側)はセルジューク帝国の支配下へと変わり、 セルジューク家の根拠地であった中央アジア系の人々がアナトリアへと入植するようになります。 その人々こそ、現在のトルコ人へとつながる人々です。 こうして、セルジューク帝国はバグダードを首都として、中央アジアからアナトリアまでを支配する大帝国へと成長します。 この時期の東アジアは、栄華を誇った大唐帝国が滅亡し、約50年の混乱を経て宋王朝が成立。 その成立から約100年が経過し、その首都開封は大いに栄えていました。 一方の日本では平安時代後期にあたり、藤原北家による摂関政治の時代を経て、上皇による院政が開始された時期にあたります。 まさに平安文化が大いに花開いていた時代です。
|
Copyright © 2008 はとポッポ all right reserved.