トルコ史③(イスラム帝国との戦い)
---イスラム帝国の出現---
先に述べたように、東ローマ帝国は602年に断絶するのですが、帝国そのものは滅亡せずに存続します。 というのも、新たな王朝が開かれて、この帝国を継承したのです。 このように、この後、東ローマ帝国はいくつもの王朝によって、継承されていくことになります。

東ローマ帝国は395年から1453年まで約1050年の長きに渡って続いたことになっていますが、 国名には変わりがなくても、実態としては、何度も政権交代が行われていたわけです。

王朝が変わっても、東ローマ帝国にとって厳しい時代は続きます。

6世紀後半、アラビア半島のメッカに誕生した一人の英雄が、トルコ史だけではなく、 世界史に大きな影響を与えます。 その人物こそ、ムハンマド、またの呼び名をマホメットともいうイスラム教の創始者です。

彼が作った国は、イスラム帝国と呼ばれ、瞬く間にアラビア半島を席巻します。 彼の死後は、正統派カリフと呼ばれる事実上の皇帝達によって、帝国は継承され、 651年には東ローマ帝国を圧迫してきた、サーサーン朝ペルシャを滅ぼします。

当初この帝国は合議制によって、カリフを選出していましたが、ムアーウィヤという人物が実力によって 世襲王朝を開きます。これがウマイヤ朝です。 この王朝の創始は661年とされています。

この王朝に圧迫された東ローマ帝国は、北アフリカを失い、縮小を続けることになります。 さらには、首都コンスタンティノープルまで包囲を受けますが、難攻不落の要塞と ギリシアの火と呼ばれる秘密兵器によって、辛くも撃退します。

一方のウマイヤ朝は北アフリカを越えて、イベリア半島(現在のスペイン)に上陸し、 ここを支配下に治めます。 また、北東へも支配地を伸ばし、サマルカンドやブハラといった中央アジアの都市も支配下に治め、 まさに世界帝国というべき大帝国を築き上げます。

また、北方では第一次ブルガリア王国が誕生し、東ローマ帝国と激しく争います。 まさに東ローマ帝国受難の時代といっていいでしょう。

さて、イベリア半島を支配していた西ゴート王国がウマイヤ朝によって滅ぼされたのは711年。 アジアに目を向けてみると、中国ではその翌年に唐の玄宗皇帝が即位し、唐王朝が最盛期を迎えようとしている時代でした。 また、日本はその前年に平城京に遷都し、奈良時代が幕明けた時期になります。

---カールの戴冠---
また、この頃、西欧では強力な国家が誕生していました。 フランク王国がそれです。 そのフランク王国に、新たな庇護者を求めるローマ教皇が接近します。

そして、西欧史にとって最も重要な年となる800年、ローマ教皇レオ3世はフランク王であるカール1世に ローマ皇帝の帝冠を授けます。 世に言うカールの戴冠です。

当然、唯一のローマ皇帝を自認する東ローマ皇帝は反発。 この年を境に、東ローマ帝国は西欧社会と決別したといって、いいでしょう。 一方、西欧はこれを契機に、独自にローマ帝国の継承者として、ローマ皇帝を戴くことになります。 カール大帝を初代とするかどうには議論が残るようですが、事実上の神聖ローマ皇帝の誕生がこの年です。

そして、ローマ教皇は東ローマ帝国と決別することで、皇帝の戴冠という政治的権力を手にしたわけです。 こういったことをきっかけに、協会も東西に分裂。 ローマ教皇と決別した東側の協会が、ギリシア正教会です。

また、東ローマ帝国は、これ以後、事実上ギリシアの帝国として歩んでいくことになります。

この頃、中国では、唐で安史の乱が発生し、その隆盛に陰りがみえた時代で、 一方の日本は、平安京に遷都したばかりの平安時代初期にあたります。

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