トルコ史②(ローマ時代)
---共和政ローマ---
アレキサンドロス大王の頃から、アナトリア(トルコのアジア側)のエーゲ海沿岸で大いに栄えた都市があります。
ラテン語でエフェソス、現代のトルコ語ではエフェスと
呼ばれる都市がそれです。
湾岸都市として繁栄を極めたこの都市にあるアルテミス神殿は、ギザの大ピラミッドや
バビロンの空中庭園と並んで、世界の七不思議の一つに数えられることになります。さて、アレキサンドロス大王の死から約100年後、西方から徐々に新たな勢力が進出してきます。 その国こそ、共和制ローマです。 第二次ポエニ戦争で宿敵カルタゴを撃破。 勢いに乗るローマは東方への進出を開始します。 アレキサンドロス大王死後のマケドニアに敵対する勢力を糾合した共和制ローマはマケドニアを破って、 東方進出への足掛かりを得ます。 この際に、共和制ローマに協力したアナトリアの国家がベルガモン王国です。 その都ベルガマは、現在のトルコの中心都市の一つであるイズミルの北にあります。 紀元前133年、ベルガモン王国の王はローマに王国を委ねると言い残して亡くなります。 そうして、ローマはアナトリアの地を支配することになりました。 エフェソスやベルガマといった都市は、こうして誕生したローマのアシア属州の中心地として栄えます。
---コンスタンティノープル---
ローマの支配地としてもアナトリアは重要な位置を占めます。
ローマの有力者であり、クレオパトラの恋人として知られるアントニウスは東方を治めるために、
エフェソスに滞在していたと言われています。そのアントニウスとクレオパトラを破って権力を掌握したアウグストゥスより 帝政ローマが始まったといわれています。 紀元前27年のことです。 その帝政ローマ末期に現れた皇帝コンスタンティヌス1世が、トルコ史に、いや世界史に特筆すべきこと を行います。 それこそがコンスタンティノープル、後のイスタンブールの建設です。 当時ビザンティウムと呼ばれたこの地が交通の要衝で、かつ金角湾という天然の良港をもつことに着目した コンスタンティヌス1世によって建設されたこの都市は、後に第二のローマと呼ばれるまでに発展することに なります。330年のことです。 それともう一つ。コンスタンティヌス1世で忘れてはならないのが、キリスト教の公認です。 コンスタンティノープルの後の絢爛たるキリスト教文化の蕾はこのときにふくらみ始めたわけです。 その後、衰退を重ねるローマは395年に東西に分裂。 東ローマ帝国の首都がコンスタンティノープルに置かれることになりました。 こうして、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都として繁栄していくことになります。 この時期の東アジアは、中国が三国時代を経て、華北に異民族の進入を許した五胡十六国時代を 迎えていました。 日本は、というと、卑弥呼の時代を終え、大和王朝誕生前夜といった頃です。
---東ローマ帝国---
ゲルマン人の侵入で早くに西ローマ帝国が滅びたのに対し、難攻不落の首都のコンスタンティノープルを
もつ東ローマ帝国は繁栄します。
大帝ユスティニアヌス1世の時代には、西はイタリア半島に加え、イベリア半島(スペイン)の一部、
南はエジプトまで領する広大な領土を手に入れます。
まさにローマ帝国の継承国として、そして
世界帝国として、この時期のオリエント世界に君臨していたのです。ギリシャ語読みで、『ハギア・ソフィア大聖堂』すなわち、現在のアヤソフィア が再建され、ビザンティン建築を代表する壮麗な建物となったのもこの時代のことです。 首都コンスタンティノープルも大いに栄えます。 が、その一方で戦費の増大が財政を圧迫。 565年に大帝ユスティニアヌス1世が亡くなると、帝国は崩壊へと向かいます。 西のイタリアへはゲルマン人が、東からはサーサーン朝ペルシャが侵攻し、疲弊した帝国は反乱によって 皇帝が殺され、帝国は断絶します。 602年のことです。
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