台湾史③(日本敗戦~台湾民主化)
---日本敗戦---
台湾のことを考えるとき、
日本の植民地支配の功罪ということを
考えずにはいられません。
台湾の人々の親日的な様子を見ると、日本統治が台湾の人にとって、
必ずしも悪いことばかりではなかったのか、と、日本人としては
少し安心する思いです。しかしながら、植民地統治というのは、やはり本質的に 歓迎されるものではないことは覚えておかねばならないでしょう。 私が思うに、植民地統治の悪の最たるものは 文化の強制です。 日本の台湾統治でも、それは行われました。 それに対する不満が爆発したのが、 霧社事件です。 事件のあった霧社は台湾のちょうど真ん中に位置する小さな村です。 日本統治開始から約35年後の1930年、 この地域の原住民が蜂起して、学校で日本人134名を殺害。 日本政府は報復として、原住民700名程度を殺害、 日本の報復はそれだけでは終わらず、別の原住民を利用して、 さらに200名を殺害。 さらには、投降した原住民をも秘密裏に処刑したという 何とも痛ましい結末を迎えた事件でした。 原住民の文化を無視した同化政策、そして搾取という、 植民地統治の悪弊がやはり原因でした。 もう一つ、意外と知られていないことを書いておきましょう。 日本で、旧帝大という表現をしたとき、 東大、京大、阪大、名大、北大、東北大、九大という七大学を 普通指しますが、 実際にはもう二つあります。 現在のソウル大学と台湾大学 それぞれ旧称、京城帝国大学、台北帝国大学です。 もっとも、学生の大半が日本人であったことからも分かるように、 必ずしも現地の人のために作ったとはいえないですが。。。 さて、話を戻しましょう。 よく知られているように、日本は太平洋戦争を開始します。 その戦争末期には、日本の拠点であったために、台湾も 空襲を受けたことは忘れてはなりません。 そして、1945年、日本は敗戦。 台湾は中国へ返還されます。
---二・二八事件---
当時の中国は蒋介石率いる国民党政権でした。
蒋介石はさっそく台湾に軍を派遣します。
台湾の人が親日的である最大の理由は、この国民党政府(蒋介石)
の失政にあるといっていいでしょう。彼らは当初、日本からの解放軍として台湾の人々から歓迎されました。 が、あまりの腐敗のひどさに 人々は失望していきます。 軍紀は乱れ、皮肉なことに国民党軍によって 治安が悪化していったのです。 そして日本敗戦から2年後の1947年。 台湾史上最大の悲劇が生まれます。 事件の前夜の2月27日、闇タバコの摘発 が行われました。 闇タバコと書いたように、当時台湾ではタバコは 政府の専売制でした。 このとき逃げ遅れた台湾人女性を摘発隊は散々に殴ったことが発端に なりました。 これに同情して抗議を行った人を、 なんと射殺。 大陸では行われていないタバコの専売制に台湾の人々はもともと 不満をもっていました。 この事件は、その不満に対して火に油を注いだようなものでした。 翌日にはデモに発展。 それに対して政府が取った行動は本当に信じがたいですね。 同じ国の民衆という認識を持っていなかったのでは ないかと思ってしまいます。 政府はデモ隊に対して、一斉掃射 を行ったのです。 これが多くの死者を出した二・二八事件です。 これに対して、台湾の人々は猛反発。 国民党とともに、台湾にやってきた人々(外省人)に対して一斉に 蜂起します。 が、蒋介石はこれに素早く対応。 大軍を送り込んで、武力鎮圧します。 それだけに留まらず、台湾の知識人を徹底的に殺します。 その数、なんと数万人と言われています。
---蒋介石時代---
その頃、大陸では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党による内戦、
いわゆる国共内戦が激化していました。
当初は国民党が優勢でした。
台湾での二・二八事件の頃は、国民党も勢いのあった時代の出来事です。
が、ソ連の援助を得た共産党が徐々に勢いを盛り返し、
ついに1949年、首都南京が陥落。
中国大陸は共産党の手に落ちます。同年、共産党は中華人民共和国の建国を宣言。 いうまでもなく、これが現在の中国です。 敗れた蒋介石は最後の砦となった台湾へと逃げ込みます。 当時、朝鮮半島でも北朝鮮と大韓民国が成立し、 東アジアの共産化が進んでいました。 これに危機感をもったアメリカが蒋介石への支援を決めたことで、 蒋介石はかろうじて台湾の死守には成功しました。 が、相変わらず、国民党は大陸本土の領有権を主張。 これに対抗して共産党も台湾の領有権を主張するという 奇妙な状態が現在も続いています。 蒋介石が建設した台湾は残念ながら非民主的国家でした。 外省人(蒋介石と共に台湾に来た人々)による本省人 (もともと台湾にいた人々)の搾取。言論の弾圧。 非民主国家のお手本のような国ですね。。。 そんな台湾に転機が訪れたのが1971年。 大陸の中国が国連に承認されます。 これに反発した台湾は国連を脱退。 が、世界の流れは中国承認へと傾いていました。 翌年アメリカのニクソン大統領が電撃訪中すると、 後を追うように盟友日本も日中国交正常化を行い、中国を承認します。 これに対して、台湾は中国と国交を回復した国と次々と断交。 国際的に孤立していきます。 そんななかの1975年、台湾の巨人、 蒋介石が死去します。
---民主化---
後を継いだのは、息子の蒋経国でした。
この蒋介石の息子が意外にも民主化
への道を切り拓きます。世襲を自ら否定、さらに自らを台湾人と呼びます。 蒋介石の死後12年経った、1987年、国民党の一党独裁を捨てます。 他の政党の結成を認めたのです。 それとあわせて言論の自由が認められます。 そしてもう一つ。 忘れてはならないのが、本省人(台湾人)である 李登輝の抜擢です。 外省人(蒋介石と共に大陸から来た中国人)によって独占してきた 政治に対して、外省人である蒋経国が自ら風穴を開けたわけです。 それも副総統への抜擢でした。 1988年、蒋経国が死去。 台湾は新しい時代を迎えます。 副総統であった李登輝が総統へ就任。 台湾は一気に民主化へと進みます。 1992年には、台湾史上初の立法議員の全面改選。 さらに1996年には、初の総統直接選挙を実施。 この総統選で李登輝は初の民選総統として再選。 1998年には、大陸との対話を開始。 民主化を一気に推し進めます。 2000年、2度目の総統選挙が行われます。 これに李登輝は不出馬。 勝ったのは、野党であった民進党の陳水扁 でした。 初の政権交代が実現したわけです。 陳水扁は2期8年総統を務めたものの、スキャンダルがあって退任。 2008年に総統は再び国民党の手に戻りました。
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