台湾史②(清朝~日本統治時代)
---清朝統治時代---
鄭成功のうちたてた政権も、その死後の1683年に大陸の清王朝によって
滅ぼされます。
わずか23年の短命政権でした。さて、オランダ統治時代にオランダの東インド会社が労働力として 大陸からの移住を盛んに募集しました。 その後も、福建省、広東省から多くの移民が台湾にやってきました。 彼らが土着したのが、現在本省人と 呼ばれる人々です。 清朝時代になると、大陸との貿易によって台湾は栄えていきます。 19世紀に入ると、『一府、二鹿、三艋舺』と言われ、 貿易で大きくなった都市が登場します。 一府とは、台湾府が置かれた台南。 二鹿とは、台中の西部にある鹿港。 三艋舺が、台北の万華地区です。 台北の龍山寺近辺というほうが分かりやすいかもしれません。 数字は栄えていた順です。 現在首都の台北は第三の都市だったんですね。 また、この時代は『械闘』と呼ばれる闘争の頻発する時代でもありました。 移民がほとんどの台湾では、出身地の違う移民同士で利権を巡って 争われる武力衝突が発生しました。 それが『械闘』です。 これがあるために、台湾は治めにくく、清朝は『難治の地』と呼び、 本格的な統治を行うことはありませんでした。
---台湾割譲---
1799年、清に最大の版図をもたらした乾隆帝が死去すると、
大清帝国も衰退を始めます。
乾隆帝から2代後の道光帝の時代の1840年、
アヘン戦争が勃発。よく知られているように、この戦争で清は大敗を喫し、 香港の割譲、上海などの港の開港をすることになりました。 さらに太平天国の乱、アロー戦争といった国難が続き、 清王朝は衰退を早めていきます。 その頃、日本は明治維新を迎え、近代化を進めていました。 それを見た清も遅ればせながら、近代化を目指し始めます。 が、時既に遅く、1884年、清仏戦争で フランスに敗れてベトナムを失い、 さらに1994年朝鮮を巡って日清戦争で 日本に敗れて、朝鮮をも失うことになりました。 清王朝がアジアの盟主としての地位を失った瞬間でした。 日清戦争の結末は台湾にも重大な影響を及ぼします。 それが清から日本への台湾割譲です。 このとき、清の全権大使李鴻章が 台湾を『化外の地』と呼んだと 言われています。 要するに治めにくい土地ですよ、と警告したわけです。 清からすると反乱の頻発する地くらい日本にあげるよ、って ニュアンスもあったのかもしれません。 経済が発展した現在の台湾をみると信じられない話ですが。 実際に日本統治開始後、反乱が頻発します。
---日本統治時代---
さて、台湾がようやく治まるようになったのは第4代台湾総督である
児玉源太郎の統治からです。
彼が総督になったのは1898年。台湾割譲の3年後です。まず、台湾の中心をこれまでの台南から 台北へと変更します。 新しく都市を建設するために、あまり発展をしていなかった 台北のほうが都合がよかったのが、その理由だったようです。 その児玉源太郎を実務面で支えたのが 後藤新平です。 彼らの統治の見事さが、日本の植民地であったはずの台湾の 人々をして親日的にしたのではないかと思ってしまいます。 後藤の業績は数多いですが、ここでは主な二つを挙げておきましょう。 第一がアヘンの撲滅です。 当時イギリスのアヘン政策のために、台湾にもアヘンが蔓延していました。 これに対し、まずアヘンを許可制にして、段階的に税を引き上げることで、 長い時間をかけてついにアヘンを撲滅することに成功します。 無理に排除する政策を採らなかったのが、功を奏したわけです。 そして、もう一つ。 それが衛生行政です。 三国志で有名な孫権の人狩りでも、 連れ帰った住民よりも疫病で死んだ兵士の ほうが多かったと書かれています。 そのことからでも分かるように、台湾は疫病の蔓延する土地でした。 高温多湿の土地なので、疫病が蔓延しやすかったんですね。 医師出身の後藤は、衛生行政の導入によって、その対策を行いました。
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