台湾史①(鄭氏政権まで)
---先史時代---
有史という言葉があります。 いわゆる文字による歴史のことで、これをもって国の歴史が古いとか 浅いとかいう表現をすることがあります。 アメリカは歴史が浅い、とか、そういうときに使います。

その意味では、台湾の歴史は非常に新しいです。 が、アメリカに先住民の歴史があったはずなのと同様に、 台湾にも先史時代が存在します。

ここでは、そこから書き始めてみることにします。

先史時代とはいえ、対岸の大陸の文献に時々記載がみえます。 三国志で有名な呉の初代皇帝孫権が 人口不足の解消のため夷州から人を強制移住させた、 という記述があります。 この夷州というのが台湾だと言われています。

このとき、そのために派遣した兵が疫病にかかっています。 台湾は未開の地、疫病の蔓延する土地だったわけです。

そのために、この地を統治する王朝は長く現れませんでした。

この時代から台湾に住む人々が過去に 『高砂族』『山地人』などと呼ばれていた人々です。 現在は、『原住民』と呼ぶようになっているようです。 首狩りの風習があることから分かるように、 長く中華圏の文化に触れることはありませんでした。

---オランダ統治---
その台湾の領有に興味を持ったのが、大航海時代を迎えたヨーロッパです。 彼らはアジアで貿易を行う上での中継基地として台湾に着目しました。

まず、1624年にオランダが現在の台南に ゼーランディア城を築いて、その統治を開始します。 そして1626年、続いてスペインが 基隆に上陸し、その地の統治を開始します。

両雄並び立たず、1642年ついにオランダがスペインを 駆逐します。 当時ヨーロッパでは、スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れるなど、 スペインが覇権を失いつつある時期でした。 プロテスタントの多かったオランダは カトリック教国であるスペインからの独立を望み、 この時期それをほぼ達成しつつありました。

台湾での出来事はその勢いの差が如実に現れたといっていいでしょう。 そしてオランダの黄金時代の到来 を示す出来事であったといえます。

日本では三代将軍家光が参勤交代を義務付けるなど、 徳川幕府による統治が強化されている時期でした。 対岸の中国大陸は明王朝末期。 欧州は清教徒革命前夜というべき時期で、激動の時代を迎えようと していました。

---鄭氏政権---
台湾でオランダがスペインを駆逐した2年後、 対岸の中国大陸に激震が走ります。 農民の反乱が一気に拡大し、その反乱軍によって、明の 首都北京が陥落。 約300年続いた明王朝は滅亡します。

この当時、中国東北部では満州族が清を建国し、明と対峙していました。 太祖ヌルハチの後を継いだホンタイジが急死した翌年で、 摂政王ドルゴンが実権を握っていました。
(余談ですが、、、清という王朝はヌルハチから、ホンタイジ、ドルゴン、 順治帝、康熙帝、雍正帝、乾隆帝と7代も名君が続いたというのは 中国の王朝にあっては珍しく、その版図が最大となったのも頷けますね。)

明が突如滅んだのを見たドルゴンは、全軍を率いて長城を越えることを 決断します。 北京を占領していた反乱軍は大敗し、北京は清の手に落ちます。 世に言う『清の入関』です。 このため、約300年ぶりに王朝交代が行われることになりました。

これに対し、明の遺臣であった鄭成功が 『反清復明』を掲げて中国南部で挙兵します。 日本でも近松門左衛門の『国性爺合戦』の主人公として有名ですね。 また、中国人を父に、日本人を母にもつため、日本人にも馴染みの 深い人物です。 また、元は海賊であるのに、亡明のために挙兵したことも 日本人好みなところですね。

その鄭成功が抗戦を続ける拠点として目をつけたのが台湾でした。 1661年にオランダを攻撃し、その地に政権をうちたてます。 オランダ統治は約20年で幕を閉じることになりました。

欧州ではイギリスが勢力を強め、同じ海洋国家のオランダはその圧力により、 短い黄金期に終わりを迎えようとしているところでした。 台湾での出来事は遠く東アジアにもその兆候が現れたということが できるかもしれません。

ちなみに、この時期の日本は4代将軍家綱の時代になります。

NEXT

Copyright © 2008 はとポッポ all right reserved.