スペイン史⑨(フランコ独裁政権)
---スペイン内戦--
その後、世界では第一次世界大戦が勃発。 それに対し、スペインは中立を堅持します。

が、その後の経済の混乱は、スペインの歴史の大きな転換点を迎えることになります。

1923年、プリモ・デ・リベーラ将軍によるクーデターが勃発し、軍事独裁政権が樹立されます。 が、経済の混乱は収まることなく、この政権は徐々に支持を失っていきます。 1929年に始まった世界恐慌に追い討ちをかけられるように、リベ-ラは退陣に追い込まれます。 さらに、勢いにのる共和派により、国王アルフォンソ13世も1931に退位に追い込まれます。 無血革命によるスペイン第二共和政の誕生です。

しかし、この共和政は長く続きませんでした。 左派と右派による対立が激しく、政治混乱を招いたのです。 この対立とは、暗殺を伴うようなもので、経済の混乱とあわせて、混乱の収拾を望む声が 広がるようになります。

そういう情勢下では強い政権が待ち望まれるというのは、歴史の必然なのでしょうか。 ドイツ、イタリア、日本といった国と同様、スペインでもファシズム が台頭するようになります。

1936年7月モロッコでファシズム派による反乱が起きます。 血で血を洗うスペイン内戦の始まりです。 軍の主力が反乱軍側についたため、この戦争は反乱軍側に有利に展開することになります。 そして、この反乱軍の中で台頭してきたのがフランコ将軍です。 彼は同じファシズムのドイツとイタリアの支援を取り付けます。

それに対して、左派が権力を掌握していた共和国政府は、ソ連の支援を受けることになりました。 が、このソ連の介入が共和国内部の対立を招く結果となります。当時、親ソ連派であったスペイン 共産党は少数派であったのですが、ソ連の支援を受けて、反対派を粛清し、反発を招くことになります。

そうした状況下で、フランコ率いる反乱軍は、次々と諸都市を陥落させます。 1938年12月にバルセロナが陥落、1939年3月にマドリッドが陥落し、ついに内戦が終結します。 30年の長きに渡るフランコ独裁政権の始まりでもありました。

ところで、この戦争は多くの芸術作品を生むことにもなりました。 ヘミングウェイの小説『誰がために鐘は鳴る』や、ピカソの絵画『ゲルニカ』が有名です。 内戦中、フランコに味方するドイツによる空爆が行われた都市がゲルニカで、それにより 市民の犠牲者が多く出たことに憤慨してピカソが描いたと言われています。

---フランコ独裁政権--
内戦終結の年の9月、第二次世界大戦が勃発します。 フランコ政権はドイツ・イタリア・日本と友好的な関係であったものの、内戦による荒廃を 理由に中立の立場を宣言します。

この第二次世界大戦の間のフランコの立ち回りは非常に微妙なものです。 事実上、ドイツを支援しながら、イギリスやアメリカといった連合国側の機嫌を損ねないよう 立ち回るという、何とも際どい外交をやっています。

第二次世界大戦が終結すると、ドイツを支援していたことに加え、ファシズム政権であるために、 アメリカなどから批判にさらされます。

しかし、東西冷戦の開始という情勢が、フランコに救いの手を伸ばします。 反ソ連で一致し、且つ地中海の入り口に位置するという地政学的な重要度のために、西側諸国にとって、 スペインとの関係修復が重要となり、1953年に米西防衛協定が締結され、 スペインは国際的孤立から抜け出すことに成功します。

ところで、フランコ政権はアメリカの意向を受けて、徐々に民主的な政策を取り入れてはいきますが、 基本的には自由な社会とはいえない政権でした。その象徴が言語です。 バスク地方やカタルーニャ地方は独自の言語を持っているのですが、それらの使用を禁じたのです。 このことは、かなりの不満を招いたと思われ、テロが活発化した一因となっています。

---王政復古--
さて、独裁政権を築き上げたフランコですが、その後継者に指名したのは、なんと前国王アルフォンソ13世の 孫であるフアン・カルロス1世でした。 どうもフランコはスペインに議会制民主主義はそぐわないと考えていたようで、それに代わる形態として 王政が望ましいと考えたようです。内戦前の共和国政府の混乱をみて、そう考えたのでしょうか。

どこかの国の指導者のように、世襲制を考えなかったあたり、自由を束縛したにせよ、権力に固執すると いうタイプではなかったのかもしれません。弾圧を繰り返したその手法は批判されてしかるべきですが、 内戦前後の混乱の収拾など、その政治手腕は評価されるべきものもあるのかもしれませんね。議会制民主 主義の中から、そういった政治手腕をもった人物が現れなかったことがこの国の不幸だったというべき でしょう。

さて、フランコの後継者たるべく英才教育を受けていたフアン・カルロス1世ですが、1975年にフランコが 死去し、同年に即位すると、一転して民主化を推し進めます。 1977年には総選挙、1978年には新憲法が発布され、スペインは立憲君主制へと 移行しました。

1981年には国王親政を求めるクーデターが勃発しますが、国王はこれを拒否、反乱部隊も国王の呼びかけに 応じて投降したことから、国民の国王への信頼は不動のものとなったといわれています。

何がともあれ、こうしてスペインは現在の民主国家へと生まれ変わったわけです。 我々が自由にこの国を旅できるのも、そのおかげ。この国王に感謝しなければいけませんね。

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