スペイン史⑦(凋落の時代)
---スペインの凋落--
最盛期は、凋落の始まりでもあります。 スペインもその例外ではありません。

その兆候は既にフェリペ2世の時代に現れていました。 その象徴が1588年のアルマダの海戦でのイングランドに対する敗北です。 一度の敗戦でスペインが制海権を失うようなことはありませんでしたが、これ以後スペインは徐々に 衰退を見せ始めます。

最も大きな痛手を伴ったのが、オランダとポルトガルの独立でしょう。

オランダはプロテスタント信者が多く、熱心なカトリック教国であるスペインに次第に反発するように なり、フェリペ2世の時代から独立運動が繰り広げられていました。

そういう情勢下、全ヨーロッパを揺るがす事件がボヘミア(現在のチェコ)で発生します。 プロテスタントへの弾圧に反発したボヘミアの諸侯が反乱を起こしたのです。 当時のボヘミアはオーストリアのハプスブルク家の支配下にありました。 この反乱を好機とみたフランスが参戦したことで、戦いは泥沼化します。 フランスは、スウェーデン、デンマーク、イングランド、オランダといった国々と 反ハプスブルク同盟を結成。 いわゆる三十年戦争の始まりです。

フランスにとって、ハプスブルク家は東西から国を挟んでいる宿敵であり、 その脅威を取り除くことが、フランスにとって戦略上重要だったのです。 そのさなかの1640年、ポルトガルが独立します。 フランスはその独立を承認し、スペインを背後から脅かすポルトガルを支援します。

フランス、オランダ、ポルトガルといった国と対立したスペインは各地で敗退。 オーストリアのハプスブルク家も戦況は好転せず、1648年についに和平条約が締結されます。 この和平でスペインはオランダの独立を認め、さらにその20年後にポルトガルの独立も 承認することになります。

---スペイン継承戦争--
さて、スペイン王家は近親結婚が多かったせいか、フェリペ2世の曾孫の代についに断絶してしまいます。

そのスペインに興味をもったのが、当時フランスで絶対王政を確立した太陽王ルイ14世でした。 スペイン王に孫のフェリペ5世を送り込んだのです。

フランスの膨張政策に危機感を抱いた欧州諸国が反発して、1701年、スペイン継承戦争が始まりました。 反フランスの中心となったのが、元のスペイン王家と同族であるオーストリアのハプスブルク家と、 名誉革命を経たばかりのイギリスでした。

さらに、スペイン宮廷のあるマドリッドはフランス王家を支持したのに対し、カタルーニャやアラゴン、バレンシアといった諸都市が これに反発し、反フランスの立場を鮮明にして、内戦の様相も示すようになりました。 これは、元々独自の王朝をもっていたこれらの都市が、マドリッドの中央政権に徐々に自治権を奪われてきたことに対する反発が 背景にあったようです。このあたりが、現代のマドリッドに対するバルセロナの対抗意識へと繋がっているのでしょうか。

この戦争はオーストリア・イギリスらの連合軍有利に展開しました。 しかし、その一方でイギリスは、オーストリアのハプスブルク家がスペインを継承して、再びハプスブルク家による大帝国が 出現することも望んでいなかったのです。 こうしたことが背景にあり、イギリス主導による和平が進められます。

この和平条約にて、フランスはフェリペ5世の即位承認の引き換えに、いくつかの領土を失うことになります。 そのうちの一つが、スペイン領であり、地中海の入り口を抑える要衝ジブラルタルのイギリスへの割譲でした。 この地は未だにイギリス領となっています。

しかし、何がともあれ、スペイン王家は、ブルボン家の手に渡ったわけです。 この王家が現在まで続くスペイン王家の血筋となっています。

この条約の成立は1713年。 日本は吉宗の将軍就任の3年前。 中国は清帝国第4代皇帝である康熙帝の代であり、まさに全盛期を迎えようとしていました。

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