スペイン史⑥(黄金時代)
---ハプスブルク朝スペイン--
新大陸から流入する富に沸くスペイン本国でも、大きな変化が起こっていました。

1496年、スペイン王国を共同統治している女王イサベルとフェルナンドの長女フアナが オーストリアのハプスブルク家に嫁いだのです。 当時、ハプスブルク家は各地の王家と姻戚関係をもつヨーロッパの名家でした。

そうして生まれた人物こそ、後のスペイン王カルロス1世であり、 神聖ローマ皇帝としてはカール5世と呼ばれる人物です。 1516年に母方の祖父であるスペイン王フェルナンドが死去すると、スペイン王として即位します。

スペインの王冠はハプスブルク家に渡ったわけです。 スペイン・ハプスブルク朝の誕生です。

さらに1519年に父方の祖父のマクシミリアン1世が死去すると、オーストリアを始めとする ハプスブルク家の全領土を継承。 同年、激しい競り合いを制して、父王と同じくローマ皇帝の帝冠をも手にします。

新大陸からの富に潤い、旭日の勢いとはまさにこのことですが、大きな危機が訪れます。 当時、ハプスブルク家と激しく覇を競っていたのが、フランス王家であるヴァロワ家でした。 ハプスブルク家がスペイン王位を手にし、東西から挟まれる形になったフランス・ヴァロワ朝の フランソワ1世が東の大国オスマン帝国と手を握ったのです。

イスラム国家であるオスマン帝国は1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、中東から東欧にかけて大勢力を築いていました。 そして、ついに1529年、スレイマン大帝率いるオスマン軍がハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲。 これはかろうじて退けますが、1538年にはプレヴェザの海戦で大敗を喫して、地中海の制海権を完全に失うことに なりました。

---スペイン黄金の世紀--
カルロス1世は退位にあたり、スペイン国王を息子のフェリペ2世に、オーストリアと神聖ローマ皇帝の帝位を 弟のフェルナンド1世に譲ります。 こうして、ハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分かれることになりました。

このフェリペ2世の時代にスペインは最盛期を迎えることになります。 その最盛期をもたらしたのは、なんといっても1580年の隣国ポルトガルの併合です。

当時、ポルトガルはアフリカやインド洋周辺に加え、ブラジルまで領有する超大国でした。 この隣国の王朝が断絶した機をとらえ、その王位も手にしたのです。 『日の沈まぬ帝国』と呼ばれたのは、誇張ではなく、まさに事実だったわけです。

その勢いが現れたのが、ポルトガル併合の9年前のレパントの海戦です。 当時、地中海の完全に制し、日の出の勢いだったオスマン帝国を海戦で破るという快挙を成し遂げたわけです。 もっとも、スペインが地中海の制海権を手にするのは、もっと先のことになったようですが。

ちなみに、日本からの伊東マンショらの天正遣欧少年使節団を迎えたのも、この国王です。

また、マドリッドのエル・エスコリアル宮殿が造営され、 マドリッドに遷都されたのもこの国王の時代でした。

そのフェリペ2世が亡くなったのは、1598年。 日本の豊臣秀吉が亡くなったのと同じ年のことでした。

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