スペイン史④(レコンキスタ)
---キリスト教勢力の巻き返し---
しかしながら、後ウマイヤ朝の繁栄は長く続きませんでした。 1031年に、内乱によってあっさりと滅亡します。 カリフを称して、100年後のことです。

その後、イスラム勢力はタイファと呼ばれる王国が乱立する分裂状態となり、 イベリア半島は群雄割拠の時代へと突入します。

この時代になると、北部に追いやられていたキリスト教勢力が徐々に勢いを盛り返します。 そのキリスト教勢力をまとめ上げたのがナバーラ王サンチョ3世です。 この王がイベリア半島北部に散在していたキリスト教勢力を次々と併合して勢力を拡大 しますが、1035年に王が亡くなるとその遺領は息子達に分割相続されます。

そのとき分割されて誕生した国の一つが、カスティーリャ王国とアラゴン王国です。 この2つの王国がレコンキスタの軸となっていくのです。

まず、主役に立ったのがカスティーリャ王国です。 カスティーリャ王国はサンチョ3世の次男であるフェルナンド1世によって相続され、 王国として成立します。彼は隣国のレオン王国を攻撃して、その王位も手に入れます。 さらに、アルフォンソ6世の時代には、叙事詩で有名な英雄エルシド の活躍もあり、イスラム勢力が支配するトレドやバレンシアを征服します。 こうして、カスティーリャ王国は北イベリアの中央部に大きな勢力を確立します。

一方のアラゴン王国。 サンチョ3世の庶子ラミロ1世によって相続されて始まった王国です。 アラゴン王国は、1118年にイスラム勢力からサラゴサを奪い、それを首都に定めます。 さらに1137年に隣国のカタルーニャを支配するバルセロナ伯を婿として迎え、 アラゴン王国はカタルーニャを含めたイベリアの北東地域を支配する大きな勢力となります。

ちなみにバルセロナ伯はフランク王国を宗主として仰ぐ君主だったのですが、 この時期フランク王国は3つに分裂しており、かつての隆盛はなく、 バルセロナ伯は独立色を強めていました。 カタルーニャの起源がフランク王国にあるということが、この地方の言葉がスペインの他の地方と 違っている背景となっているわけです。

さて、これらのキリスト教勢力に押されたイスラム諸勢力(タイファ諸国)が頼ったのが、 北アフリカのイスラム王朝でした。ムラービト朝からムワッビト朝と王朝を代替わりしながら、 南イベリアはこれらイスラム王朝の支配下に入り、しばらくの間キリスト教勢力と均衡を保ちます。

---レコンキスタとグラナダ王国---
この均衡を破ったのは、当時ヨーロッパで盛んに行われていた十字軍の呼びかけでした。 1212年、ローマ教皇の呼びかけで結成されたカスティーリャやアラゴンを始めとするキリスト教勢力の 連合軍がムワッビト朝の大軍を破り、イベリア半島の形勢は一気にキリスト教勢力へと傾きます。

カスティーリャ王国はコルドバ、セビーリャを次々と攻略。 アラゴン王国も、バレアス諸島に加えて、イスラム勢力に再占領されていたバレンシアをも攻略。 1250年頃にはイベリア半島はほぼ全域がキリスト教勢力に置き換わります。

唯一残ったのが、あのアルハンブラ宮殿を築いたナスル朝グラナダ王国です。

成立は1232年。ムワッビト朝の衰退に伴い、誕生した小国の一つでした。 この王朝はイスラム勢力でありながら、キリスト教勢力であるカスティーリャと協力関係を保つことで、 生き残りを図ります。この外交戦略が功を奏して小国でありながら、260年もの長きに渡って、 命脈を保ち、秀逸な文化を残すことができたわけです。

この頃、東洋ではモンゴル帝国が成立。 西洋社会へも大きな影響を及ぼそうとしていた時代です。 日本は、というと、鎌倉幕府の源氏の血脈が絶え、北条氏による執権政治が始まっていました。

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