スペイン史③(イスラムの支配)
---ウマイヤ朝の侵攻---
7世紀は西ゴート王国がイベリア半島での支配を強固なものとした時代です。 が、そのはるか東では、西ゴート王国などものともしない大帝国が建設されていました。

それこそが預言者ムハンマド、別名マホメット率いるイスラム帝国です。

この帝国を引き継いだムアーウィアという人物によって、661年にイスラム初の世襲王朝が開かれます。 それがウマイヤ朝です。 この帝国の勢いはすさまじく、独自に繁栄を続けていた東ローマ帝国から北アフリカを奪い、 アラブ地方を中心に、東は中央アジア、西は北アフリカまでを支配下に治める強大な国家へと成長します。

そして、ついにその矛先がイベリア半島の西ゴート王国に向かいます。 711年にウマイヤ朝のイスラム軍がアフリカから次々と上陸し、西ゴート王国は滅亡します。

こうして、長きに渡るイスラム国家の支配が始まることになります。 とはいっても、ウマイヤ朝は宗教に対して寛容であったと言われています。

勢いにのるウマイヤ朝はフランク王国へも侵攻しますが、732年に決戦に敗れて、 侵攻はここで終わることになります。

こうして西はイベリア半島まで支配下に治めたウマイヤ朝ですが、その足元では反乱が頻発するように なっていました。この反乱は次第に規模が大きくなり、750年についにウマイヤ朝は倒されます。 そうして成立したのが、ウマイヤ朝以上に強大な国家となるアッパース朝です。

---後ウマイヤ朝とコルドバの繁栄---
アッパース朝はウマイヤ朝の王族を徹底的に虐殺しますが、その虐殺を逃れた人物がいます。 その人物こそ、アブド・アッラフマーン1世で、モロッコに逃れた後、ジブラルタル海峡を渡り、 756年にコルドバに入ると、その地でウマイヤ朝を再興します。 それが後ウマイヤ朝です。

彼は、王朝を再興したものの、アッパース朝のカリフに遠慮したのか、はたまたイベリア半島しか 支配していない状況にプライドが許さなかったのか、事実上の皇帝を意味するカリフを称することを せず、地方総督を意味するアミールの称号を名乗ります。

さて、後ウマイヤ朝のスタートは前途多難だったと言わざるを得ません。 アッパース朝は中国の大唐帝国を破り、世界最強国として君臨。その首都バグダッドは150万人を越えたとも言われるほど 大いに栄えます。

さらに、イベリア半島の北にも、西欧社会の盟主となる強国が成長していました。 かつて西ゴート王国をガリア地方から追い出したフランク王国です。 800年、フランク王国の王カール1世がローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を授けられます。 史上名高いカールの戴冠です。

西ローマ帝国が476年に滅亡して以来、ローマ皇帝といえば、世界に東ローマ皇帝ただ一人であったにも 関わらず、二人のローマ皇帝が並立する事態となったわけです。 言い換えれば、それほど強力な力をカール1世は持っていたわけです。

これらの強国に挟まれた形の後ウマイヤ朝ですが、徐々に勢力を増し、929年にはカリフ位を称するまでになります。

世界に二人のカリフが並立する事態となったわけです。 この時代のコルドバはバグダッドに匹敵する繁栄を遂げたと言われています。 当時のイスラム世界が世界最高峰の文化をもっていたことを思えば、まさにコルドバが西欧世界の文化の中心だったわけです。

この時代、中国では栄華を誇った大唐帝国が滅亡し、五胡十六国時代に突入していました。 日本はというと、遣唐使が廃止され、日本固有文化である平安文化が花開こうとしている時代でした。

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