ドイツ史⑨(プロイセンとザクセンの登場)
---ホーエンツォレルン家の登場---
ハプスブルク家が勢力を拡大させる一方で、ドイツ国内では逆に皇帝の影響力が低下していきます。
すなわち諸侯の力が増大しつつあったのです。
勢力伸張が著しかったのがホーエンツォレルン家です。勢力伸張のきっかけは、ルクセンブルク家最後の皇帝ジギスムントの時代まで遡ります。 1415年、皇帝ジギスムントは、帝位獲得に協力したホーエンツォレルン家に、ルクセンブルク家が保持していた ブランデンブルク辺境伯の地位を授けます。 これは選帝候の一つであり、この地位を授かったことが飛躍の第一歩となりました。 後にプロイセン王国、ドイツ帝国と築いていく第一歩がこのときだったわけです。 ホーエンツォレルン家は本拠をベルリンに移します。 小さな村にすぎなかったベルリンが大都市へ変貌をとげる第一歩がこのときといっていいでしょう。 また、ドイツの北方の地プロイセンでも、ホーエンツォレルン家に関わる大きな出来事が発生します。 リトアニアがキリスト教に改宗し、ポーランドと同君連合を形成し、北に大国が出現します。 プロイセンに勢力を伸ばしてきたドイツ騎士団は、この大国ポーランドと対立。 1410年に、両者がタンネンベルクの戦いで激突し、ポーランドが圧勝すると、ドイツ騎士団は徐々に勢力を弱めていきます。 1510年にドイツ騎士団総長に就任したアルブレヒトはホーエンツォレルン家の傍流で、且つポーランド国王の甥でした。 このアルブレヒトがポーランド王に臣従の誓いを立てることで、ポーランド王からプロイセン公に任命されます。 ポーランド傘下のプロイセン公国の誕生です。 この公国の首都は、ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)。 この時期、西プロイセンのダンツィヒ(現ポーランドのグダニスク)や、リガ(現ラトビア)と並ぶ規模を誇る、バルト海交易で栄える港町でした。 ドイツから見ると、かなり東に誕生した公国ですが、よく知られているように、後のドイツ史に大きな影響を与えることになります。 こうして、ホーエンツォレルン家は、ブランデンブルクとプロシアという2つの領土を手に入れ、大きく発展を遂げていくことになります。
---ザクセン選帝侯---
かつて、ザクセン公国はオットー大帝やハインリヒ獅子公などを輩出。帝国内最大勢力でした。
が、ハインリヒ獅子公のフリードリヒ・バルバロッサに追放された際、公国は諸侯に分割され、その勢力を大きく減退させます。ザクセンが再び力を持つようになったのは、ヴェッティン家が治めるようになってからです。 1422年、ルクセンブルク家最後の皇帝ジギスムントはヴェッティン家にザクセン選帝侯領を授けます。 ヴェッティン家はマイセン辺境伯とテューリンゲン方伯を既に兼ねていましたので、それにザクセン選帝侯領を含めた地域を抑える ことになりました。 小国家群に分割されていたザクセンが、多少勢力を回復させたといっていいでしょう。 が、再び分裂のときがやってきます。1485年、ザクセン公国は共同統治していたエルンストとアルブレヒトという兄弟が袂を分かち、 公国は2つに分裂します。 兄のエルンストはヴェッティン家の根拠地であったマイセンを去り、その代わりに選帝侯領とテューリンゲンを継承します。 エルンスト系ザクセン公国はヴィッテンベルクをその首都に定め、1502年には後にルターで有名になる ヴィッテンベルク大学が創設されています。 一方、弟のアルブレヒトは、ヴェッティン家の根拠地であるマイセン辺境伯領を確保。 アルブレヒト系ザクセン公国も、首都をマイセンからドレスデンに移します。 後のザクセン王国はこのアルブレヒト系で、華やかなドレスデンの宮廷文化の始まりがここにあったといっていいでしょう。
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