ドイツ史⑧(ハプスブルク帝国の幕開け)
---ヤン・フスの宗教改革---
宗教改革といえばマルティン・ルターが有名ですが、ルターに先駆けること、およそ150年前に その先駆者がボヘミア(現在のチェコ)の地に現れます。 今もチェコ国民に愛されているヤン・フスがその人です。

既にこの頃にはローマ教会による免罪符の販売がなされていました。 十字軍の費用を賄うために発行したと言われています。 罪をお金で購う免罪符に真っ向から反対したのが、当時のプラハ大学学長ヤン・フスでした。

このことは大きな反響を呼びます。ボヘミアの民衆が熱狂的にフスを支持したのです。 それに対し、ローマ教会はフスを異端と断じます。

そして、もう一人、フスの存在を苦々しく思っていた人物がいます。 皇帝ジギスムントです。あのカール4世の次男です。 帝位を再びルクセンブルク家に取り戻すことに成功した矢先にルクセンブルク家のお膝元のボヘミアでの異端騒ぎ。 腹を立てていたことは想像に難くありません。

その怒りがボヘミア国民に人望のあったフスを火刑に処すという最大の失策を招きます。 フスの処刑の4年後の1419年、ジギスムントが兄からボヘミアの王位を継ぐと、 ジギスムントに対するボヘミア国民の不満が爆発します。

フスの支持者達の反乱は瞬く間にボヘミア全土に波及。 いわゆるフス戦争です。 帝国軍は連戦連敗。皇帝ジギスムントの威信は完全に失墜します。 反乱軍の内部抗争で戦争がようやく終結したのは15年後の1434年でした。

このときには帝国は疲弊しきっていました。

日本は応仁の乱前夜といった時期、中国は明帝国が全盛期を迎えていた時代です。

---ハプスブルク帝国---
フス戦争で疲弊しきったまま1437年にジギスムントは死去。 断続的ながら4人の皇帝を輩出した名門ルクセンブルク家も断絶します。 この家はボヘミア統治に重点を置き、帝国の中心はボヘミアに移った時代でもありました。

力を失ったルクセンブルク家に替わって再び帝位を手にしたのがハプスブルク家です。 もう一つの有力諸侯ヴィッテルスバッハ家は二つに割れ、勢力が落ちていたのが響いたのかもしれません。 以後、帝位はハプスブルク家が世襲していくことになります。

1493年に帝位につくマクシミリアン1世こそ、ハプスブルク帝国ともいうべき大帝国の基礎を築いた人物です。 「戦争は他家に任せよ。幸いなるオーストリアよ、汝、結婚せよ。」との言葉で有名なように、 政略結婚により勢力を広げていくことになります。

1477年、男系が断絶したブルゴーニュ公国から妻を迎え、ブルゴーニュ公国を継承します。 マクシミリアン1世の婚姻政策の第一歩だったと言っていいでしょう。

ブルゴーニュ公家は、現在のフランス・ブルゴーニュ地方だけでなく、ネーデルランド、アルザス、ロレーヌと 広範な地域を支配しているうえ、この時期のブルゴーニュ公国の首都はフランドル地方のブリュッセル(現ベルギー)で、 この時期は文化的にもイタリアすら凌駕するほどの先進地域でした。

1492年には、マクシミリアンは長男フィリップの嫁に、スペイン統一を成し遂げたイサベル女王とフェルナンド2世の両王の長女を迎えます。 フィリップはブルゴーニュ公家の母をもっているわけで、この結婚により生まれたカールとフェルディナントという2人の兄弟は ハプスブルク家、ブルゴーニュ公、スペイン王家に連なるという類まれな血筋だったわけです。

スペインのカトリック両王が亡くなると、1516年に孫のカールがスペインの全王位を継承します。 スペインはコロンブスの新大陸発見により、莫大な富が流れ込みつつあり、莫大な財力をもっていました。 領土としても、スペイン、新大陸だけでなく、イタリア南部にも大きな領土を保有していました。

さらに、孫であり、カールの弟のフェルディナントに、1515年にはハンガリー王家から嫁を迎えます。 すると、1526年にハンガリー王はオスマン・トルコとの戦いで戦死。フェルディナントにハンガリー王位が転がり込みます。 当時のハンガリーはヨーロッパ有数の強国で、ルクセンブルク家断絶後のボヘミア王も兼ねていました。

まさに政略結婚が実を結び、ハプスブルク家は広大な領土を手にしたわけです。 その領土はオーストリア、ハンガリー、ボヘミア、イタリア南部、スペイン、新大陸と、 空前の大帝国となったわけです。

日本は戦国時代初期、信長が生まれる少し前の頃です。

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