ドイツ史③(神聖ローマ帝国の興隆)
---帝権の拡大---
欧州史に冠たるオットー大帝ですが、その滑り出しは順風満帆ではありませんでした。
マジャールを打ち破ったレヒフェルトの戦いの2年前、王国全土を巻き込む大反乱を
経験しています。息子であるロイドルフの反乱です。オットー大帝が若い後妻を娶り子が生まれると、 先妻の子であるロイドルフには不満が募り、ついに反乱を起こしたのです。 その反乱には、オットー大帝の娘婿であり大きな勢力を誇っていた コンラート赤公も加担し、大規模な反乱へと発展します。 その反乱を鎮圧したのもつかの間、次は宿敵マジャールとの決戦に挑みますが、戦況は思わしくなく、 オットー大帝は窮地に陥ります。その窮地を救ったのが、ロイドルフの反乱に加担し、蟄居していた コンラート赤公でした。コンラート赤公が戦死する激戦となったものの、レヒフェルトの戦いで オットー大帝は勝利。その功績が称えられ、コンラート赤公家の勢力は拡大します。 1024年にザクセン朝初代ハインリヒ1世の直系が断絶すると、コンラート赤公の曾孫にあたる コンラート2世が帝位につきます。その王朝がザーリアー朝です。 コンラート赤公はオットー大帝の娘婿ですから、コンラート2世はオットー大帝の血を ひいているわけで、ザーリアー朝もオットーの系譜を継ぐ王朝だといって間違いはないでしょう。 さて、オットー以来の各皇帝はその帝権の拡大に励んできます。 特に黒王と呼ばれたハインリヒ3世はローマ教皇位を巡る争いに介入するなど、大きな力を持ちました。 以前述べたように、皇帝とはローマ皇帝を意味しており、イタリアへの影響力拡大は歴代の理想であったのです。 以前は戴冠される前はドイツ王と名乗ることが多かったのですが、この頃から自らをローマ王と呼び始めたことにも イタリア支配への意欲がみえるといっていいでしょう。
---カノッサの屈辱---
が、1062年に黒王ハインリヒ3世が急死し、わずか6歳のハインリヒ4世が即位すると状況は一変します。
幼い国王のもと、諸侯は皇帝に抑えつけられていた力を取り戻すべく画策。
後に成人したハインリヒ4世は諸侯の力に苦しむことになります。それをチャンスと捉えた人物がいます。 ローマ教皇グレゴリウス7世です。 当時、皇帝は司教を任免に大きな影響力をもっており、司教任免権を教皇の手に取り戻すことを画策したのです。 当然ながらハインリヒ4世は反発し、対立は激化します。 1076年、ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世の廃位を宣言、それに対し教皇側もハインリヒ4世の破門を宣告します。 この争いは教皇側に有利に展開します。 王権の拡大を快く思わないザクセン公を始めとするドイツ諸侯が教皇に味方したためです。 窮地に立たされたハインリヒ4世は教皇に謝罪せざるをない状況に陥ります。 1077年1月、雪の降る中、カノッサ城門にて3日間裸足のまま断食と祈りを乞い、ようやく許しを得ます。 世に名高いカノッサの屈辱です。 謝罪を強制されることの屈辱を示す慣用句はこうして生まれたわけです。 が、争いはそれで終わりではなく、後にドイツ国内を掌握することに成功したハインリヒ4世は、 イタリアに侵攻し、グレゴリウス7世を廃位。自ら擁立した教皇による戴冠も受けています。 結局、この争いは皇帝側の勝利で終わったといっていいでしょう。 その後も皇帝と教皇の争いは続き、息子のハインリヒ5世の時代に教皇の司教任命権を認める形で一応の決着を みることになります。1122年のことです。 中国では宋王朝が末期を迎え、北方の新興国である金の力が増していた時代です。 日本では白河法皇による院政の全盛期を迎えていました。
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