ドイツ史②(フランク王国時代)
---カールの戴冠---
西ゴート王国を追い出すことに成功したものの、初代クロヴィスの死後、領土が分割相続されたこともあり、
相続争いにより王権は弱体化。その代わりに宮宰を努めたカロリング家が実権を掌握します。732年にイベリア半島から上陸してきたウマイヤ朝イスラム帝国軍を撃退すると、その名声は頂点に達します。 当時のウマイヤ朝イスラム帝国はイランに本拠を置き、北アフリカ、イベリア半島(スペイン)、中央アジア まで支配するまさに世界帝国でした。 東ローマ帝国ですら止められなかった異教徒国家の侵攻を止めた実力がローマ教皇に認められ、ついに王に 選出されます。それがカロリング朝フランク王国です。 その2代目が有名なカール1世、世に言うカール大帝です。 このカール1世がローマ教皇レオ3世より、ローマ皇帝の帝冠を授かります。800年のことです。 世に名高いカールの戴冠です。 強力な庇護者を求めるローマ教皇が西欧最大の実力者カール1世に近づいた結果でした。 西ローマ帝国滅亡後、ローマ皇帝といえば、世に東ローマ皇帝ただ一人であったはず。 それがこの出来事により、もう一人のローマ皇帝が誕生したことになりました。 西欧社会が東ローマ帝国との決別を告げた瞬間といっていいでしょう。 そして、神聖ローマ帝国の原型が誕生した瞬間ともいえます。 また、カール大帝は、ドイツのアーヘンを首都に定めています。 中国では大唐帝国が傾き始め、日本では平安京へ遷都し、いよいよ平安文化が花開こうとして いた時期です。
---オットーの戴冠---
領土の分割相続というのはフランク族の習慣らしく、カール大帝のカロリング朝においても、
カール大帝の孫の代に分割相続がなされます。843年のことです。現在のドイツを治めることになったのが東フランク王国です。 この東フランク王国では911年にカロリング家が断絶します。 諸侯はフランケン公であったコンラート1世を新王に選出します。 が、この王は追う国内最大勢力であったザクセン族と対立します。 ザクセン族はカール大帝に討伐されて、フランク王国に組み込まれた部族で、 フランク王家と婚姻を繰り返して、王国内で大きな力を持つに至っていました。 当時、王国内をマジャル人が荒らしまわっており、コンラート1世はその侵攻を抑えられませんでした。 そうして、国内では強力な王を望む声が高まり、その声に押される形で、コンラート1世は 宿敵であるザクセン公ハインリヒ1世を後継者に指名することになります。 そうして始まった王朝がザクセン朝です。 ハインリヒ1世はマジャール人と休戦協定を結んで、戦闘準備を十分に整えると、 マジャール人に宣戦布告。息子のオットーと2代に渡るマジャール人との戦いの火蓋が切って落とされます。 そして、マジャール人を撃破し、その長い戦いに終止符を打ったザクセン朝2代目の王こそ 史上名高いオットー大帝です。 955年、レヒフェルトの戦いでマジャール人を激戦の末撃破します。 それまでマジャール人はヨーロッパ中を荒らしまわっていただけに、この勝利は非常に大きく、 ヨーロッパを異教徒マジャールから救った救国の戦士として、オットーはヨーロッパ中から称えられることになります。 この功績が認められて、962年に帝冠を授かります。 これこそがオットーの戴冠です。日本ではこのときをもって、 神聖ローマ帝国の始まりと教えますが、本人はカール大帝を継いだつもりだったといわれています。 ちなみにドイツではオットー大帝ではなく、カール大帝を神聖ローマ帝国の初代と教えるらしいです。 中国では大唐帝国滅亡後の半世紀にわたる混乱がついに収束し、宋による統一がなされた時期です。 日本では藤原氏による摂関政治が全盛を迎えていました。
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