ドイツ史⑮(ドイツ統一)
---ウィーン体制の崩壊---
辣腕の宰相メッテルニヒが企図したウィーン体制ですが、もはや時代の潮流とあっていなかったと言わざるをえないでしょう。 1848年、フランスで再び発生した革命が体制を大きく揺さぶります。 世に言う1848年革命です。

フランス革命は民主主義とナショナリズム、民族主義を世に広め、辣腕宰相メッテルニヒをもってしても、 それを沈め続けるのは不可能だったということでしょう。 むしろ、約35年もの期間体制を維持し続けた手腕は賞賛されていいかもしれません。

ともかく、フランスで1984年に発生した二月革命はフランスの王政にとどめを刺し、 3月には帝都ウィーンに波及し、メッテルニヒは亡命を余儀なくされ、 ウィーン体制は事実上崩壊します。

これら一連の革命の底流には民族主義的な思想があったことは覚えておかなければならないでしょう。 フランス革命以前には民族主義という思想はなく、フランス革命によって、ドイツ民族が自らをドイツ民族と意識するように なったと言っても過言ではありません。

---フランクフルト国民議会---
1948年革命後に行われたフランクフルト国民議会における議論は覚えておいていいでしょう。 初めてドイツ民族による国家についての議論がなされたのです。

それまでドイツは小国が乱立し、フランスやイギリスと違って、単一国家が存在していませんでした。 それを統一すべきだという機運がもちあがったのです。 まさにフランス革命の影響といっていいでしょう。

が、これは大きな問題をはらんでいました。 ドイツ人が居住する最大の国家といえば、オーストリア帝国ですが、その国内にはハンガリーのマジャル人や、チェコのスラブ人など を含む他民族国家だったのです。 ドイツ人のみの国家となると、国家の解体を意味します。

このオーストリアを含むドイツ国家形成の考えを大ドイツ主義と言いますが、 自らの国家解体をオーストリアが望むはずもなく、頓挫します。

代わりに台頭してきたのが、当時急速に力をつけてきたプロイセン主導によるドイツ統一の考え方、 オーストリアを排除した小ドイツ主義です。 結局、根底にあるのが民主主義的発想であることを知るプロイセン国王も、これを拒否するのですが、この考え方は後のドイツ帝国まで伏流としてずっと存在し続けたといっていいと思います。

---ビスマルクの登場---
ウィーン体制崩壊後、ドイツにおける主導権を巡って、オーストリアとプロイセンが綱引きをしていました。

そういった時期に、プロイセン宰相に就任したのが鉄血宰相ビスマルクです。 1862年に宰相に就任すると、有名な鉄血演説により、軍拡を勧めることを表明。

そのビスマルクが最初のターゲットに定めたのがシュレースヴィヒとホルシュタインでした。 これらの地はデンマーク領土だったのですが、ドイツ人が多く居住し、彼らによる独立運動が盛んになっていたのです。

ビスマルクは対デンマークという点で利害の一致したオーストリアと同盟を結び、デンマークを撃破し、 両国はこれらの地を分け合います。

が、戦後処置を巡り、両国は対立。 1866年、ついに両国は開戦します。 普墺戦争の始まりです。

プロイセンには北ドイツの中小諸邦が味方したのに対し、オーストリアには、バイエルン王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルク王国、 ハノーファー王国といったドイツの4王国に加え、南ドイツのほとんどの国が味方します。

が、ビスマルクにより装備を一新していたプロイセン軍の前に、オーストリア軍はあっさり敗退します。

この戦勝により、プロイセンはハノーファー王国、ヘッセン選帝候国、フランクフルト自由都市などを併合。 大きく勢力を増大させます。

さらに翌1867年、オーストリアを排除する形で北ドイツ連邦を成立させます。 プロイセンによるドイツ統一の第一歩といっていいでしょう。

このとき、バイエルン王国とヴュルテンベルク王国はこれに参加していないことは覚えておいたほうがいいかもしれません。 これらの国はオーストリアとの関係が深かったわけです。

一方、オーストリアもそれに対抗する形で、オーストリア・ハンガリー帝国を成立させます。 ドナウ流域の経営に専念するようになったといっていいでしょう。

ちょうど日本が徳川慶喜が大政奉還をした年になります。

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