ドイツ史⑭(ナポレオンとウィーン体制)
---ナポレオンの登場---
1789年、隣国フランスで発生した出来事がドイツを、いや世界を振り動かします。 フランス革命です。

国王まで処刑するという、あまりにリベラルな思想に震撼した欧州各国は一斉に反フランスで団結します。 窮地に立たされたフランスですが、英雄ナポレオン・ボナパルトの登場で、戦局は一変します。

処刑されたフランス王妃マリー・アントワネットの出身であるオーストリア・ハプスブルク家も反フランスで参戦しますが、 天才ナポレオンの前に敗北し、帝都ウィーンもあっさり陥落。その翌年の1806年、ナポレオンによって 神聖ローマ帝国は解体させられます。

以後、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝と名乗ることはなく、オーストリア皇帝と名乗ることになります。

---緒王国の誕生---
この頃の神聖ローマ帝国には既に実態はなかったのですが、この出来事がドイツに多くの王国を誕生させることになります。

すなわちナポレオンの同盟者であったバイエルン公国、ヴュルテンベルク公国といった国を、ナポレオンは王国に昇格させます。 バイエルン王国ヴュルテンベルク王国の誕生です。 これらの国はナポレオンの勢いをみて、ナポレオンに接近していたことが功を奏したわけです。

解体させた神聖ローマ帝国の代わりに、ナポレオンが成立させたのがライン同盟です。 バイエルン王国やヴュルテンベルク王国といったドイツの有力諸侯で結成されたナポレオンを盟主とする同盟でした。

このライン同盟の成立に脅威を覚えたのがプロイセンです。 1806年、イギリス、ロシア、スウェーデンと結び、対仏同盟を結成し、フランスとの戦争に踏み切ります。

が、天才ナポレオンの前に、イエナ・アウエルシュタットの戦いで敗北。 ベルリンも陥落します。当初、プロイセン側で参戦していたザクセン公国は、 プロイセンとの同盟を破棄し、ナポレオンに接近して王号を獲得します。 ザクセン王国の誕生です。

ナポレオンの勢いは凄まじく、同年にロシアをも破ると、エルベ川の西にヴェストファーレン王国を建設。 これは、プロイセンの領土の一部に、ナポレオンの宿敵であるイギリスと同君公国であったハノーファー選帝侯国などを加えた 王国で、ナポレオンの弟が国王を務めました。

イギリスと同君であったハノーファー選帝侯国はこのとき、フランスに占領され、独立を失っていたのです。 プロイセンも領土を削られ、大きく勢力を減退させることになりました。

スペイン王国、ヴェストファーレン王国に兄弟を王として据えたナポレオンの絶頂期といっていいでしょう。

---ワーテルローの戦い---
が、唯一ナポレオンに屈しなかったイギリスを封じ込めるために発令した大陸封鎖令が逆にナポレオンの 首を絞めることになります。 この大陸封鎖令はイギリスとの交易を各国に禁じるというものだったのですが、海洋大国であったイギリスとの交易を禁じられて 困ったのはナポレオンに従っていた大陸諸国だったのです。

スウェーデン、ポルトガル、ロシアなどが次々と離反。 ナポレオンが1812年に見せしめのために行ったロシア遠征は失敗に終わり、 それを好機とみたプロイセンが再び離反します。

オーストリアもそれに続き、再び対仏同盟が結成され、1813年に両軍はライプツィヒの戦いで激突。 プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンで総勢36万ともされる大軍の前に、さすがのナポレオンも敗退します。

その後、各国の軍がフランスに殺到し、ナポレオンは追放されます。

ところが、ナポレオン後の体制を各国が首脳が話し合っている最中にナポレオンが追放先のエルバ島を脱出。 瞬く間にフランス軍は再建されます。慌てた反フランス連合軍も終結し、1815年に史上名高いワーテルローの戦い が始まります。

この戦いでは、プロイセン軍が大きな役割を果たします。 激戦の最中にプロイセン軍が到着し、フランス軍の側面に猛攻を加えたため、フランス軍はたまらず崩壊。 ナポレオンの復活はあっけなく幕を閉じました。 いわゆるナポレオンの百日天下です。

---ウィーン体制---
さて、ナポレオンがエルバ島を脱出する際、各国首脳が集まって、ナポレオン後の体制について話し合っていました。 それこそが「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたウィーン会議です。

急進的なフランス革命思想を封じ込めることで、オーストリア、イギリス、ロシア、プロイセンなどの列強は一致していたものの、 その他のことでは利害が絡み合い、容易に結論をみなかったのです。が、ナポレオンがエルバ島を脱出したことで、妥協が成立。 このとき、取り決められた体制が世に言うウィーン体制です。

会議を主導したのはオーストリア帝国宰相メッテルニヒで、オーストリア帝国を盟主としたドイツ連邦が新たに誕生します。 名前こそ違いますが、神聖ローマ帝国を復活させたというのが実態に近いでしょう。 また、当然のことながら、ナポレオンの弟が国王であったヴェストファーレン王国は解体、ハノーファーは独立を取り戻します。

さて、既にこの時点で、ドイツには、プロイセン王国、バイエルン王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルク王国の4つの王国が存在していました。 プロイセン以外は、ナポレオンによって新たに王国となった国です。

ヴュルテンベルクが王国に名を連ねていたことで、バランスを取るためにハノーファーを王国に昇格 させることが決められました。イギリス王がハノーファー公を兼ねていたので、戦勝国のイギリス王家に配慮したのかもしれません。 これにより、ドイツ連邦には1つの帝国と5つの王国が名を連ねました。

その他に、大小さまざまな公国が名を連ねていましたが、特筆すべきは自由都市でしょう。独立を保っている自由都市はずいぶんと数を減らし、 このとき、自由都市としてドイツ連邦に名を連ねたのは、リューベック、ハンブルク、ブレーメン、フランクフルトの 4都市のみでした。

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