ドイツ史⑫(プロイセンの台頭)
---プロイセン王国の成立---
三十年戦争の最中、ブランデンブルク選帝侯位を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルムこそが、 大選帝侯と称えられ、プロイセンの繫栄の基礎を築いた人物です。

既に述べたように、ブランデンブルク選帝侯は、プロイセン公を兼ねていました。 当時のプロイセンはポーランドを宗主国としていましたが、ポーランドはバルト帝国として強大化したスウェーデンと、 新興国家ロシアの攻勢に苦しんでいました。

大選帝侯は、1660年に弱体化したポーランドと協定を締結し、ついに独立を勝ち取ります。 さらに、北の大国スウェーデンの戦争に勝利し、その影響力を排除します。

ベルリンのウンター・デン・リンデン通りは、この選帝侯時代のものです。

さらに1701年に始まったスペイン継承戦争が、プロイセン王国への道を開きます。

スペイン・ハプスブルク家が断絶すると、フランスの太陽王ルイ14世が孫のフェリペ5世をスペイン王へと送り込んだ ことで、戦争が始まります。フランスの宿敵で、皇帝のオーストリア・ハプスブルク家が、それに反発。

この状況をみたブランデンブルク選帝侯は、皇帝に味方することの引き換えに、王の称号を要求します。 ブランデンブルク選帝侯の味方を得たい皇帝がそれを承認したことで、プロイセン王国が誕生します。 首都はベルリン。ブランデンブルク王ではないところが面白いですが、ブランデンブルクは帝国内なのに対し、プロイセンは帝国外の国。 帝国外の王号ならよかろう、というわけです。その初代王がフリードリヒ1世です。

スペイン継承戦争自体は、反フランス連合軍の勝利に終わりますが、ハプスブルク家の勢力伸張を喜ばないイギリスの思惑により、 スペイン王位はブルボン家の手に渡ることになりました。

---フリードリヒ大王---
プロイセン王の2代目が兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世です。 その名の通り、軍備増強に励み、プロイセンは軍事大国に成長します。

その成果が結実したのが、その次のフリードリヒ大王の時代です。

当時、オーストリア・ハプスブルク家は男系が断絶。 1740年、女帝として名高いマリア・テレジアがオーストリア大公として即位します。 これに真っ先に異を唱えたのが、プロイセンのフリードリヒ大王でした。

いわゆるオーストリア継承戦争です。 この戦争に勝利し、プロイセンは豊かなシュレージエンを獲得します。 当時、フランスとの2強であったオーストリアを撃破したことは、ヨーロッパ中を驚かせました。

フリードリヒ大王を生涯の宿敵と認識したマリア・テレジアは、起死回生の奇策を実行します。 それがカール5世以来の宿敵であったフランスとの同盟です。愛娘マリー・アントワネットを嫁がせ、 フランスと反プロイセン同盟を結成します。

その反プロイセン同盟にはロシアやスウェーデンも参加し、フリードリヒ大王は窮地に立たされますが、 かろうじてロシアやスウェーデンとの講和に成功し、危機を乗り越えました。

その一方で、1772年、弱体化したポーランドを、ロシア、オーストリアと分割することを取り決めます。 いわゆる第一次ポーランド分割です。この分割で、プロイセンはダンツィヒを 中心とする西プロイセンを獲得します。

また、ポツダムには、サンスーシ宮殿を建設しています。

---ザクセンのアウグスト強健王---
プロイセンと並ぶ北ドイツの大国ザクセンが輝きを放ち始めたのが、アウグスト強健王の時代です。

ザクセンといえばルター以来プロテスタント国家でしたが、カトリック国のポーランド王位獲得のため、 アウグスト強健王はカトリックに改宗します。

それにより、オーストリアとロシアの協力を得たアウグスト強健王は1697年にポーランド王位を獲得。 当時のポーランドはスウェーデンとロシアの攻勢に苦しんでおり、その37年前にはプロイセンが独立するなど、厳しい情勢でした。 アウグスト強健王の即位もロシアの後援により、スウェーデンを打ち破ったからこそで、ポーランドはロシアの保護国と化していきます。

そのためにポーランドでの評価は芳しくない強健王ですが、地元ザクセンの本拠地ドレスデンでは宮廷文化を花開かせます。 バロック音楽の大家であるバッハがライプツィヒで活躍したのも、この王の時代です。 が、その最たるものはマイセン磁器の製造でしょう。 錬金術師ベドガーの発明とされるこの磁器により、ザクセンは巨万の富を得ることになります。

磁器に執着するアウグスト強健王は、隣国プロイセンの兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が保持する磁器コレクションを欲しがり、 なんとザクセンが誇る竜騎兵600人と151個の磁器コレクションを交換しています。 芸術に関心があるアウグスト強健王と、軍事に関心があるプロイセンの兵隊王との差が表れていて面白いエピソードです。

が、軍事大国への道を進むプロイセンとの差を思い知らされる出来事が起こります。 オーストリア継承戦争に始まるオーストリアとプロイセンの争いです。 オーストリアのマリア・テレジアに味方したザクセンは、真っ先にプロイセンの侵攻を受けることになります。 国力の差は歴然で、ザクセンは宮廷をポーランドのワルシャワに移すまでに追い込まれます。 強健王の息子の代のことです。

その後、ロシアやフランスと手を結んだオーストリアの巻き返しにより、プロイセンが窮地に立たされたのは既に述べたとおりで、 かろうじてザクセンは独立を回復しました。

ヴェッティン家はポーランド王位を1763年に失いました。以後ポーランドは列強による分割を経験していくことになります。

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