ドイツ史⑪(三十年戦争)
---ボヘミアの蜂起---
カール5世時代のアウクスブルクの和議以来、ハプスブルク家はルター派などのプロテスタント諸侯とカトリック諸侯の宥和政策を進めていました。 が、1617年に熱心なカトリック教徒であるフェルディナント2世がボヘミア王位を継ぐと、ボヘミアのプロテスタント諸侯を弾圧し始めます。 ヤン・フス以来ボヘミアではプロテスタントが優勢であったため、この政策にボヘミア諸侯は激しく反発します。

1618年にプラハでボヘミア諸侯が蜂起。いわゆる三十年戦争の始まりです。 翌年には、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に迎えます。 ヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯はカルヴァン派で、プロテスタント諸侯の盟主というべき存在でした。

それに対し、ハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世は、スペイン王、バイエルン公、ザクセン選帝侯といった反プファルツ勢力を結集します。

バイエルン公はプファルツ選帝侯と同じヴィッテルスバッハ家ですが、カトリックを信奉しており、プファルツ選帝侯家とは激しく対立していました。 それに対し、ザクセン選帝侯はルター派のプロテスタント諸侯ですが、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とは折り合いが悪く、皇帝に味方します。 皇帝と同じハプスブルク家のスペイン王家については説明不要でしょう。

これら帝国内の有力諸侯の味方を得た皇帝軍は、1620年にプファルツ・ボヘミア連合軍を撃破。 反乱はあっさり鎮圧されます。

戦後処理として、皇帝フェルディナント2世は、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世から選帝侯の資格を取り上げ、バイエルン公マクシミリアン1世に その資格を与えます。これにより、選帝侯の権利がプファルツからバイエルンに移ることになりました。 カール4世の金印勅書以来の大きな出来事といえるでしょう。

そして、ヴィッテルスバッハ家の骨肉の争いが招いた大戦争の始まりだったともいえるかもしれません。

---デンマークの参戦---
プファルツの敗北で終結したかに思われた戦争でしたが、北の大国デンマークが動きます。 プロテスタントの盟主を自認するデンマークは、ドイツのプロテスタント諸侯の要請に応える形で出兵します。

これは、ドイツの有力な司教座を獲得する目的のほかに、同じくプロテスタント国であるスウェーデンとの主導権争いの側面も あったと言われています。スウェーデンは1523年にデンマークから独立。バルト海でデンマークと激しく覇を競っていました。 その宿敵スウェーデンにプロテスタント諸侯の盟主の座を奪われることを懸念したわけです。

が、焦りにも似た参戦は、近隣国との連携不足を露呈します。一方のハプスブルク家皇帝軍は、戦上手として名高い傭兵隊長 ヴァレンシュタインを起用。皇帝軍はデンマーク軍を完膚なきまでに叩きのめします。

デンマークはハプスブルク家と和議を結んで、戦争から撤退します。

---北方の獅子---
デンマークが撤退すると、今度はプロテスタントのもう一つの雄スウェーデンが介入してきます。 既に述べたように、スウェーデンはデンマークと激しく覇を競っていた北の大国です。この時期 北方の獅子の異名をとるグスタフ・アドルフを擁し、 バルト海の覇権を確立しつつありました。

バルト海での覇権確立を目指すグスタフ・アドルフにとって、北ドイツの重要度は高く、それらの土地へ大きな影響力をもつ ハプスブルク家を排除することを狙っていました。

一方の皇帝軍は、専横を極めて諸侯から反感を買っていた傭兵隊長ヴァレンシュタインを罷免し、戦力を低下させていました。 その上、ルター派都市であったマクデブルクで皇帝軍は略奪の限りを尽くしたことで、プロテスタント諸侯の反感を買うことになります。

その筆頭がプファルツ戦では皇帝軍と協力関係にあったザクセン選帝侯です。 元々、スウェーデンの強大化に懸念を覚え、スウェーデンに対しては協力的ではなかったのですが、この事件をきっかけに態度を一変させ、 スウェーデンと同盟を結びます。

さらに、ブランデンブルク選帝侯もそれに同調。 ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯は、1618年に分家のプロイセン公家が断絶すると、 プロイセン公も兼ねるようになり、その領土を飛躍的に増やしていました。

ザクセンとブランデンブルクという北ドイツの2大勢力の味方を得たスウェーデン軍は、破竹の進撃を続け、 レヒ川の戦いで皇帝軍を撃破すると、そのままカトリック国であるバイエルンを蹂躙。

慌てた皇帝フェルディナント2世は、罷免していた傭兵隊長ヴァレンシュタインを再招聘します。 そうして、グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインという2人の奇才の対決が実現します。

ライプツィヒ南西のリュッツェンで両軍は激突。この戦争はプロテスタント諸侯軍の勝利に終わりますが、 プロテスタント諸侯軍を襲ったハプニングが後の戦局を大きく変えることになります。

すなわちスウェーデンの英雄グスタフ・アドルフの戦死です。 この天才指揮官を失ったスウェーデンは各地で敗北し、皇帝軍はバイエルンなどスウェーデン軍に占領されていた土地を次々と取り戻します。

グスタフ・アドルフという強敵がいなくなり、自信を深めた皇帝は、専横を極めていたヴァレンシュタインが邪魔になり、暗殺します。 ヴァレンシュタインは、敵を作りすぎたというべきでしょう。

その一方で、皇帝はドイツのプロテスタント諸侯との和解の道を探ります。 元々、ザクセン選帝侯やブランデンブルク選帝侯などのプロテスタントの有力諸侯は、スウェーデンの勢力拡大を快く思っておらず、 この講和は成功します。

これで終わっていれば、ドイツの荒廃はなかったのかもしれません。 が、これで終わりではありませんでした。

---フランスの参戦---
窮地に陥ったスウェーデンの起死回生の策が、フランスの介入でした。

そもそも、デンマーク、スウェーデンの参戦の黒幕がフランスでした。 フランス王家はカトリックですが、ハプスブルク家への対抗意識が濃厚で、そのためにはプロテスタント諸侯との同盟も厭わなかったのです。

また、フランス・ブルボン家は、かつてはユグノー(カルヴァン派)の領袖だったのですが、ヴァロア朝が断絶して王位を継いだ際に、 国内のカトリック派に配慮してカトリックに改宗した経緯もあり、プロテスタントに同情的であったということもあるかもしれません。

いずれにせよ、フランスは参戦を決断したわけです。 時のフランス王はルイ13世、太陽王と呼ばれたルイ14世の父親です。 宰相はリシュリュー枢機卿、フランス・ブルボン朝の全盛時代の基礎を築いた人物でした。

フランスの参戦により、反ハプスブルク軍は再び勢いづきます。 皇帝側と講和していたザクセンやブランデンブルクといった諸邦は、勢いを取り戻したスウェーデン軍に蹂躙され、 ドイツ各地は大きく荒廃することになります。

---ヴェストファーレン条約の締結---
こうして、フランスやスウェーデンといった諸外国にドイツ各地が蹂躙され、進退窮まったハプスブルク家が和平に応じたことで戦争は終結。 1648年にヴェストファーレン条約が締結されます。

それにより、フランスはアルザスを獲得。 スウェーデンはヴィスマル、ブレーメンなどのバルト海沿岸都市を獲得。

また、スイス、オランダの独立が承認されます。 オランダの独立は、スペイン・ハプスブルク家の衰退を象徴する出来事といっていいでしょう。

さらに、アウグスブルクの和議では排除されていたカルヴァン派が認められます。 カルヴァン派の領袖で、選帝侯の権利を取り上げられていたプファルツ選帝侯が復権します。 プファルツから移管されていたバイエルンの選帝侯位も、そのまま認められたため、選帝侯が一つ増えたことになります。

さて、この条約で最も重要なことは、帝国内の領邦の主権が認められたことです。 ドイツにおける皇帝の影響力がかなり制限されたわけです。 それにより、ドイツ国内の中小国家の主権も維持され、ドイツの中央集権化が遅れた原因になったとされています。

また、三十年戦争を通じて、ドイツでは人口が30~40%減少したとも言われ、全土が荒廃したといわれています。

日本は3代将軍徳川家光の時代。中国では明帝国がついに倒れ、清帝国時代が幕を開けていました。

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