ドイツ史⑩(宗教改革)
---アウグスブルクのフッガー家---
この時代、皇帝ハプスブルク家と結びついて、莫大な財をなした商人がアウグスブルクにいます。
アウグスブルクのフッガー家です。皇帝家だけでなく、有力諸侯にも資金を融通し、財をなしたのですが、この一家のすごいところは、 ただ財をなしただけではないところです。 1521年、世界初の社会福祉住宅フッガー・ライを建設したのです。 この住宅は貧しくて敬虔なカトリック教徒であれば、格安で入居できるという慈善事業でした。 富豪フッガー家の評判がいいのはこのあたりにあるのかもありません。 さて、ブランデンブルク選帝候のホーエンツォレルン家がマインツ大司教位を獲得すべく、 フッガー家に資金調達を依頼。ホーエンツォレルン家はその返済のため、奇策を思いつきます。 それが悪名高い免罪符の販売です。 そのことが世界的大事件の引き金となりました。
---マルティン・ルターの宗教改革---
事件の舞台はエルンスト系ザクセン公国の首都ヴィッテンベルクです。
1517年、ヴィッテンベルク大学教授マルティン・ルターが大学の聖堂に
「95箇条の論題」を掲示し、免罪符を激しく非難します。いわゆる宗教改革の始まりです。 1920年には、『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』などの著作を発表し、 聖書に根拠が認められないものを否定する姿勢を鮮明にします。 事態を重くみた当時の皇帝カール5世は、ルターを召集し、自説の撤回を求めます。 が、聖書を唯一の拠り所と考えるルターは、聖書に根拠がない限り撤回できないと、カール5世の要求を拒否。 身の危険を感じたルターは、エルンスト系のザクセン選帝候フリードリヒ3世のもとに逃げ込みます。 そして、アイゼナハにあるザクセン選帝候のヴァルトブルク城に匿われます。 ルターが95箇条の論題を貼り出したヴィッテンブルク大学は、ザクセン選帝候領フリードリヒ3世が創立した大学で、 ザクセン選帝候はルターの庇護者になっていました。 さて、聖書の重要性を認めるルターは、それまでラテン語でしか書かれていなかった聖書を、民衆に広く知らしめることが 重要と考え、このヴァルトブルク城で聖書のドイツ語への翻訳に取り組みます。 この聖書の翻訳はまさに革命といっていいでしょう。 それまで司教など、ラテン語の教養のある人物を通じてしか、触れることのできなかった聖書に、一般の民衆が 触れることができるようになったわけです。 折しも、約80年前の1439年にマインツのグーテンベルクが活版印刷を発明。 ルターの95箇条の論題や、聖書は瞬く間に世界に広まりました。 また、ルターが翻訳した聖書のドイツ語は、近代ドイツ語の原型になったと言われ、その意味でもドイツ史に重要な役割を果たしました。
---ドイツ農民戦争---
このルターの宗教改革に大きな刺激を受けたのが農民達でした。領主達から搾取されてきた農民達は、ルターの主張に希望を見出したわけです。
農民達を思想面で支えたのが、かつてルターの弟子であったトマス・ミュンツァーです。ミュンツァーは聖職者を攻撃し、財産の共有を訴えます。いわば共産主義のさきがけといっていいでしょう。 しかし、ルターは純粋に神学的見地から改革を訴えたのであって、社会構造の変革を望んでいたわけではありませんでした。 そのため、ルターはミュンツァーの思想を攻撃し、ついに両者は袂を分かちます。 1524年、西南ドイツのシュヴァーベン地方の農民が一揆に立ち上がると、テューリンゲンで活動していたミュンツァーも蜂起します。 いわゆるドイツ農民戦争です。 が、ミュンツァーの思想を危険思想と考えるルターはドイツ諸侯に鎮圧を要請。 ドイツ諸侯にはルターを支持する諸侯が多く、それらの諸侯によって反乱は迅速に鎮圧されます。 ミュンツァーを始めとする反乱軍の多くが虐殺されることになります。 このとき殺された農民は10万人にも上るとも言われます。 農民がプロテスタントなら、鎮圧した側の諸侯もルターを支持するいわばプロテスタント諸侯。 この戦争は宗教改革の一環として語られますが、そのことは覚えておくべきでしょう。 そして、この戦争におけるルターの態度は、やや彼の評価を微妙なものにしたといっていいでしょう。 また、この時期、スイスが宗教改革のもう一方の旗手であったことを少し付記しておきましょう。 ツヴィングリが指導したチューリッヒ、カルヴァンが指導したジュネーブなどは独立性を強め、ハプスブルク家の影響を排除していきます。
---ザクセンの再統一---
さて、ドイツ国内に話を戻しましょう。
ルターが死去した1546年。
ドイツで大きな動きがあります。既に述べたように、ハプスブルク家は本来の根拠地オーストリアに加え、スペイン、ハンガリー、ボヘミアを領する大帝国となっていました。 それを快く思っていなかったのがドイツ諸侯達です。 反ハプスブルク家の急先鋒がヘッセン方伯とエルンスト系のザクセン選帝候です。 エルンスト系ザクセン選帝侯については、既に述べました。 ヘッセン方伯は当時テューリンゲンで大きな勢力を誇っていた有力諸侯でした。 ルターを匿っていたのがエルンスト系ザクセン選帝侯であることからも分かるように、彼らは共にルター派を自認する諸侯でした。 彼らがルターを支持したのは、カトリックの庇護者を自認するハプスブルク家に対抗する意味が濃厚であったように思います。 さて、ルター派諸侯達はフランス、デンマークとの連携にも成功し、1546年についにハプスブルク家の皇帝カール5世に宣戦を布告します。 このとき、一人の人物の動向が戦局を左右します。アルブレヒト系ヴェッティン家のモーリッツです。 かつてエルンスト系のザクセン選帝侯と分かれ、もう一つのザクセン公国を治める有力諸侯でした。 彼もまたルター派諸侯ですが、皇帝カール5世と取引をします。 すなわち、皇帝に味方する代わりに選帝侯位を手にする契約を結んだのです。 モーリッツの動向をみても、プロテスタント対カトリックといった単純な戦争ではないことが分かります。 さて、こうして、モーリッツを味方にすることに成功した皇帝軍はルター派諸侯軍を撃破。 これが、シュマルカルデン戦争です。 この勝利により、モーリッツは選帝侯位とその所領の大半を手にします。 エルンスト系とアルブレヒト系に分かれていたヴェッティン家が、事実上アルブレヒト系に統一されたわけです。 アルブレヒト系ザクセン公国の首都であったドレスデンは、その後ザクセン選帝侯領の首都として栄えていくことになります。 ちなみにヘッセン方伯は、その後分割相続があって、勢力を減退させていくことになります。 この戦争後、ルター派諸侯に対する締め付けを強化することに、モーリッツが反発したこともあり、 1555年、アウクスブルクの和議が結ばれ、帝国内ではルター派、カトリックのいずれを選択してもよいことになりました。 ただし、カルヴァン派やツヴィングリ派は認められなかったことは付記しておかなければならないでしょう。 1555年といえば、桶狭間の戦いの5年前。いよいよ信長が世に出ようとしている時代のことです。 中国では大明帝国が末期を迎えつつありました。
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