ドイツ史①(ローマ時代)
---ゲルマニア属州---
ドイツの歴史をどこから書き始めるべきかということには、議論が分かれるところかと
思いますが、ここではローマ時代から書き始めたいと思います。紀元前201年にカルタゴのと宿命の対決を制したローマは拡大政策をとります。ローマがまず進出したのが東方世界です。 東方世界とは、ギリシャを始めとする地域ですが、この地域は古来よりヘレニズム文化の栄える 先進地域でした。これらの文化を吸収することには大きな意味があったわけです。 それに対して、西方世界、すなわち現在の西欧地域は蛮族の跋扈する蛮地で、進出は後回しと なっていました。が、ギリシャのマケドニアを属州化し、支配下におき、東方への進出が一段落したことで、 ようやく西方へも目を向けます。 そうして始まった戦争が有名なガリア戦争です。 ローマの実力者となっていたユリウス・カエサル、または英語風にジュリアス・シーザーと 呼ばれるこの人物がその主役です。 当時既にローマはガリア地方の南、すなわち現在の南フランスに属州を持ち、攻略の足場を固めていました。 カエサルはその全ガリア(現在のフランス)を制圧すべく、積極的に戦争を仕掛け、ついに全ガリアを属州化することに 成功します。その際に、その北方にあるゲルマニア、すなわち現在のドイツへも侵攻したと言われています。 カエサルはこの成功を元に、実力をつけ、独裁者への道を歩み始めることになります。 さて、ゲルマニアです。ゲルマニアは蛮地と言われたガリアよりもさらに未知の土地だったのです。 が、カエサルの活躍もあって、紀元前27年頃には、ゲルマニア・スペリオルという属州が誕生します。 州都は現在のマインツです。 また、90年にはさらに奥地にゲルマニア・インフェリオルという属州が誕生します。 州都は現在のケルンでした。 これらの州都はいずれもライン川沿岸。つまり、ライン川がゲルマン諸族に対するローマの防衛線だったのです。 言い換えれば、ローマの侵攻を食い止めるだけの実力がゲルマン諸族にあったということかもしれません。 中国では後漢王朝が成立し、ローマとの交易を開始した時代です。 また、日本では倭の奴国王が後漢の光武帝から金印を授かったとされるのもこの頃です。
---フランク王国の誕生---
五賢帝の一人トラヤヌス帝の時代には、東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島
という大帝国を築き上げたローマ帝国にも、衰退の時はやってきます。375年に始まった、世に名高いゲルマン民族大移動がその発端となります。 フン族に追われたゲルマン諸族がローマ領内に続々と侵入するようになるのです。 度重なる蛮族の襲来に苦しんだローマは、ついに395年、帝国を2つに分かちます。 二つに分かれた帝国のうち、西ローマ帝国は蛮族の侵攻を受け続け、ついに476年に滅亡に至ります。 が、衰亡する国があれば、勃興する国があるのが世の常です。 西ローマ帝国滅亡の5年後の481年に、西欧世界の覇者となる王国が誕生します。 欧州史に冠たるフランク王国です。 フランク王国はローマが蛮族と呼んだゲルマン諸族の一つフランク族のクロヴィスによって建国されました。 勢力を伸ばしたのもガリアやゲルマニアといった蛮地。ローマが衰退していくのに対し、西欧社会の興隆は ここから始まるのです。 初代の王クロヴィスはフランク族を統一し、王国を建国したものの、当初は小国でした。 転機が訪れたのは507年に西ゴート王国を撃破してからです。当時の西ゴート王国は、 イベリア半島、ガリア、イタリア半島に領土をもつ西欧最大の王国でした。 それを破って、西ゴート王国をイベリア半島に押し込めたことで、ガリア全域を支配下に置くことに成功したのです。 このフランク王国がゲルマニア西部、すなわち現在のドイツ西部を支配下に置きました。 その頃、中国では大帝国を築いた漢帝国が滅亡し、三国時代を経て、南北朝時代を迎えていました。 隋による再統一の約70年前というところです。 日本は継体天皇の時代で、仏教伝来前夜というところでした。
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