******ゴシックへの回帰******
三度のケルン。
三度目の訪問にして初めて知ったことがあります。
止まっていたケルン大聖堂の建築を再開させたのは、
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世だったのです。
といっても、以前なら、後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の兄か、と思うだけですが、
ホーエンツォレルン城を見た後に、この名を聞くと少々感想が違ってきます。
そうです。
天下の名城ホーエンツォレルン城を建築させた人物こそ、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世なのです。
そう思えば、ゴシック建築などという19世紀には既に時代遅れといっていいはずの建築様式の
大聖堂の建築が何故再開されたのか、というところにも合点がいきます。
ホーエンツォレルン城をみても分かるように、中世への憧れが強い王で、それ故に
中世建築の華ともいえるゴシック建築、その中でも特に傑作というべきケルン大聖堂の建築再開に意欲を示したのでしょう。
また、当時のプロイセンはドイツ統一を目前に控えており、ケルン大聖堂はプロイセンの威信をかけた事業でもあったわけです。
そう思えば、なるほどこの威容が理解できます。
ところで、ケルンは元々プロイセン領だったわけではありません。遠く離れたベルリンが首都のプロイセンが何故ケルンを領有するように
なったかといえば、フランス革命が発端です。
そもそもは選帝候の一人であったケルン大司教領で、市民が司教を追い出した後は、帝国自由都市として自治権を持つ都市でした。
日本でいうところの、信長に屈する前の堺を思えばいいです。
が、フランス革命の際にナポレオンに占領されます。
その後、フランスが敗れると、戦勝国はフランス領を分け合い、プロイセンはケルンを含むラインラントを獲得。
ライン川交易で栄える大都市ケルンは非常に魅力的だったというわけです。
ナポレオン以前に戻すことが大義名分であったはずのウィーン会議ですが、ケルンを帝国自由都市に戻すことはありませんでした。
大義名分はそれとして、美味しいところはしっかりもらっておく、ということでしょう。
いずれにせよ、ケルン大聖堂の建築再開は、新たに獲得したラインラントの民衆にプロイセンの力を見せつける意味が濃厚にあったのでは
ないかと思います。
そう思って、この大聖堂を見上げると、少々世俗的なものに見えてしまうから不思議です。
といっても、荘厳であることには変わりはありません。
誰かがサグラダファミリア以来の感動といっていたことを思い出しました。
また、妻がもっとも楽しみにしていた場所で、妻は大いに喜んでくれました。
その後は、ケルンが誇るケルシュビールの醸造所レストラン・シオンという名店へ
入り、カレーソーセージを食べました。
ちょっと意外ですが、ドイツでポピュラーなファーストフードと言えば、ケバブとカレーソーセージなのです。
カレーといっても、辛いものが苦手なドイツに合わせて、あまり辛くなく、少し酸味がきいて、これがソーセージと実によくあいます。
パクパクとあっという間にたいらげてしまいました。
さて、ここはビール醸造所なので、なんといってもケルシュなのですが、妻はビールが苦手。
私は車。というわけで、妻がほんの少し口につけた程度で店を出ました。
少々、店の人の視線が冷たかったような気がしなくもないですが、、我々はデュッセルっ子。
ケルシュを飲むなんて許されないから、仕方がないと心の中で言い訳をしていました。