スロバキア史B(スロバキア独立)
---共産化---
さて、ようやく自治を獲得したスロバキアですが、 再び自由を奪われる日がすぐにやってきます。

チェコスロバキア独立から約20年後の1939年。 チェコスロバキアはナチスドイツ の侵攻を受けます。 そうして、チェコスロバキアは解体。 チェコはドイツの支配下に、一方スロバキアは独立して、 ドイツの傀儡政権が誕生します。

このことが後の連邦解体の遠因になったともいえるかもしれません。

1945年、チェコスロバキアはソ連軍 によって解放されます。 単独のスロバキアという国家は消滅し、再びチェコスロバキアが 誕生します。

ソ連によって開放されたこともあって、チェコスロバキアでは ソ連の影響力が強く、1948年に共産政権が 誕生します。

---チェコスロバキア解体---
その後は、チェコ史でも触れたように、 『プラハの春』を経験。 このときには、スロバキアの主要都市であるブラチスラバも ソ連の侵攻を受けています。

このプラハの春が失敗に終わったことは、チェコ史で述べた通りですが、 実はこの結果が後の連邦解体の芽を生むことになります。 スロバキア人の意向を組んで、プラハの春で要求された事項のうち、 連邦制の導入だけは実現されたのです。 この導入前までは、れっきとした一つの国だったのが、 連邦国家という名のもとに二つに分かれたわけです。

時は流れて、1989年。 ハンガリーで始まった民主化の流れは一気に東欧を飲み込み、 ベルリンの壁が崩壊。 さらに同じ年、チェコスロバキアでも民主化を実現します。

が、工業の進んだチェコと、そうでないスロバキアの間には 経済格差があり、それが遠因となって両国では支持政党が違うという 事態を招きました。

そしてついに1993年、両国首脳の話し合いにより、 平和裏に連邦を解体することになりました。 ユーゴスラビアのように流血を招かなかったことから、 ビロード離婚と呼ばれます。

そうして、チェコからお荷物とも思われていた節のあるスロバキアですが、 その後は経済が順調に拡大し、東欧諸国で先陣をきって、 2009年にユーロ導入が認められました。 他国の支配を受け続けた国に秘められた意地、 というような気がしますね。

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