スロバキア史A(チェコスロバキア誕生)
---ハンガリー王国首都---
スロバキアに転機がやってきたのが、1526年。
成長著しいオスマン帝国との戦いにより、
ハンガリー国王ラヨシュ2世が戦死。
首都ブダを始めとして、
ハンガリー領土の大半がオスマン帝国の手に落ちます。ブダを失ったハンガリーが新たな首都 に選んだのが、スロバキア地方にあるポジョニでした。 これが現在のブラチスラバです。 また、ドイツ語でプレスブルクと呼ばれるので、 小説などを読むとそちらの名前で登場することもあります。 また、オーストリア史やハンガリー史でも述べましたが、 ハンガリー王国の王冠はハプスブルク家の手に渡りました。 ハンガリー王国の領土としてわずかに残されたスロバキア地方は、 当然のようにハプスブルク帝国に組み込まれたわけです。 ハンガリー王の戴冠式もポジョニ(現在のブラチスラバ)の 聖マルティン教会で行われ、 かの有名なマリア・テレジアもここで戴冠しています。 また、この時期にオスマン帝国の支配を嫌ったマジャル人が 多くスロバキア地方に入ります。 そのことが、スロバキア内のスラブ人のアイデンティティを 喚起したと言われています。 スロバキアという国が誕生する素地はこのときに生まれたわけです。 日本が戦国時代から江戸時代へと移っていく時期のことです。
---チェコスロバキア---
さて、その後も状況は変化して、オスマン帝国からハンガリーを
奪い返したオーストリアも、市民革命に足元を脅かされ、
ついにハンガリーに妥協する形で、
オーストリア・ハンガリー二重帝国
を成立させます。
1867年のことです。ハンガリーは自治を取り戻したわけです。 もともとハンガリー王国の領土であったスロバキア地方は ハンガリーの支配を再び受けることになります。 自治を手にしたハンガリーに対し、自治を手にできなかった スロバキアでは反発が強まります。 が、ハンガリーのマジャル人、オーストリアのドイツ人の 勢力は強く、単独での対抗は難しかったわけです。 そこで、連合を考えた相手が、同じスラブ系民族であるチェコ人でした。 チェコでもオーストリアに対して自治を求める声が強まっていたのですが、 やはり少数民族であるため、単独での対抗は難しかったのです。 同じハプスブルク帝国内ですので、連合を組む相手として 最適だったのですね。 そんな中、1914年。 サラエボでハプスブルク帝国の皇太子が暗殺されたことをきっかけに 第一次世界大戦が勃発します。 戦況は帝国側に不利に推移し、それを好機とみたチェコとスロバキアの 指導者は帝国の敵であった連合国側の支援を受けて、 独立を宣言。 1918年のことです。 チェコスロバキアという国の誕生でした。
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