ハンガリー史B(近代)
---第一次世界大戦---
自治を手に入れ、マジャルの誇りを取り戻したハンガリーは
近代国家へと変貌を遂げます。
ロンドンに次いで、1896年
世界で二番目に地下鉄を開通します。ブダペストが誇る名建築物の多くが建設されたのもこの時期です。 個人的に世界で一番美しいんじゃないかと思っている 国会議事堂が建設されたのもこの時期です。 このときには首相が倹約は無用と言い放ったと伝えられています。 その他に、国立オペラ座の建設、王宮の増築。 明らかにウィーンを意識しており、マジャルの誇りを 感じずにはいられません。 1914年サラエボ事件が勃発すると、ハンガリーもオーストリア・ハンガリー 二重帝国の一部として、参戦します。 結果は、よく知られているように、ハンガリー等の同盟国側が敗北。 また、その副作用として、オーストリア・ハンガリー二重帝国は 解体、 ハプスブルク家の支配が幕を閉じます。 ハンガリーにとっては、敗戦を迎えたことで、 独立を果たすという皮肉な結果でした。 しかしその一方で、第一次世界大戦後の和平条約であるトリアノン条約に よって、ハンガリーはスロバキア、クロアチア、トランシルバニア (現在のルーマニアの一部)といった国土の7割を失います。 さらには、ドイツと同様多額の賠償金を払うはめになります。
---第二次世界大戦と共産化---
第一次世界大戦の賠償金の負担に苦しんだハンガリーは右傾化します。
そして、ナチス・ドイツに接近。
第二次世界大戦では、再びドイツと道を共にします。が、戦況が不利になると、講和に乗り出そうとしたために、 ドイツの侵攻を受けることになります。 その後、ドイツもハンガリーを維持できず、今度はソ連が 侵攻してきます。 戦後、王政が廃止され、ハンガリー王国は約950年の歴史に 幕を閉じます。 そしてソ連の影響下で誕生したのが、 共産国家ハンガリーでした。
---ハンガリー動乱---
1958年。
ハンガリーを悲劇が襲います。
プラハの春の1968年と並んで、
近代史の中で覚えておくべき年号の一つでしょう。
世に言うハンガリー動乱です。
ハンガリー動乱についてはNHKのコラムが興味深く書いていますので、
それを読んでもらったほうが面白いかもしれません。 しかしながら、私の拙い筆でも少し綴っておきましょう。 これを語る上で避けて通れないのが、その2年前の出来事、 ソ連共産党第一書記だったフルシチョフによる スターリン批判です。 ソ連のトップが3年まで世界の半分の支配者であった スターリンの政治が誤りだったと発言したわけで、 これは世界に大きな衝撃を与えます。 もともとハンガリーにはハプスブルク家からの自由を求めて 何度も立ち上がった過去があります。 スターリン批判を自由を手にする好機 ととらえて、改革を求める声が急速に高まりました。 民衆はソ連支配からの脱退を政府に迫ります。 が、フルシチョフはスターリンを批判しても、ソ連による支配体制を 変えるつもりはありませんでした。 ソ連はハンガリーでの民主化運動を弾圧するために軍隊を派遣します。 これに対する民衆の怒りが、ソ連支配体制のシンボルといっていい ハンガリー秘密警察に向かいます。 秘密警察の隊員が民衆によって次々と殺されたことが、 逆にソ連の本格的な介入を 招いてしまいます。 こうして、2万人近い死者を出し、また大量の難民を生み出して、 動乱は幕を閉じます。 また、ソ連兵による略奪や強姦が多く行われたとも言われています。 改革を進めようとした当時の首相ナジ・イムレは処刑。 他にも政治犯として1000人近くが処刑されたと伝えられています。
---ヨーロッパピクニック---
しかし誇り高きマジャル民族がそう簡単に民主化をあきらめることは
ありませんでした。
その後も、民主化を求める声は衰えず、そのためハンガリーは
東欧諸国でもっとも民主化の進んでいる国になっていきました。1985年、ソ連のゴルバチョフによってペレストロイカが始まります。 これを機にハンガリーでも急速に改革が推し進められ、 1989年ハンガリーの共産党は 一党独裁を自ら放棄するという画期的な ことを行います。 また、2月には国名から『人民』を削除。 事実上共産主義体制を放棄したわけです。 ハンガリー動乱の轍を踏みたくないソ連は、今度はそれを黙認します。 さらに、同じ年の5月。 西側の隣国オーストリアとの国境を開放。 このことが世界に大きな変動をもたらすことになります。 ハンガリーから西側へ脱出できると思った東ドイツの国民が 大挙ハンガリーへとやってきます。 当時の東ドイツは経済が行き詰まり、西ドイツへの亡命を 求める国民が多かったのです。 国境が開放されたのはあくまでハンガリー国民に対してだったのですが、 ハンガリーでは彼ら東ドイツ国民も強引に越境させようという運動が 盛り上がります。 こうして、政府黙認の元、東ドイツ国民の大量亡命が実現しました。 ヨーロッパ・ピクニックです。 同年8月の出来事です。 その後、東ドイツでは雪崩のように亡命者が続出し、 事態を収拾できなくなった東ドイツは、同年11月ついに 西ドイツとの行き来の規制緩和を発表。 それを聞いた民衆によってベルリンの壁が崩壊。 それをきっかけにドイツ再統一、他の東欧諸国の民主化、 ソ連崩壊という世界地図を塗り替える大事件へと繋がっていくことに なります。 その大きな歴史ドラマの幕を開けたのは、間違いなくハンガリー だったのです。 そこに騎馬民族マジャルの気高き魂を感じずにはいられません。
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