ハンガリー史A(他国による支配)
---オスマン帝国---
モンゴルの侵攻に懲りたハンガリーはヴィシェグラードに要塞を建設。 さらに王宮をエステルゴムからブダへ 移して、石造の王宮を建設します。 ちなみに王宮のあったエステルゴムは大司教へと譲られました。 現在、ブダに王宮が、エステルゴムに大聖堂があるのはそのためですね。

が、混乱した国内はそう簡単には収まらず、1301年にはアルパード家が断絶。 以後、選挙によって緒家から王が選ばれるようになります。

マーチャーシュ1世の時代には再び隆盛を極め、 ボヘミア王まで兼ねるようになります。

しかし、この頃には再び外敵の脅威が高まりつつありました。 オスマン帝国の台頭です。 1453年ついにビザンチン帝国(東ローマ帝国)を滅ぼしたオスマン帝国も 強国ハンガリーを前に西進を一旦中止してはいましたが、 その前線では緊張が高まっていました。

そして、1526年についに両軍は激突。 ハンガリー軍は国王が戦死 するほどの大敗を喫します。

ハンガリーは以後約150年間オスマン帝国の支配下に置かれる ことになります。

この時期の日本は下克上の吹き荒れる戦国時代の幕開けの時期です。

---ハプスブルク帝国---
一方、ハンガリーの王冠のほうは、隣国オーストリアの ハプスブルク家に引き継がれます。 これは、戦死したラヨシュ2世がハプスブルク家と姻戚関係に あったためです。

ラヨシュ2世が支配していたハンガリーとボヘミア(現在のチェコ)の 二つの王国の継承権を、ハプスブルク家は労せずして手にいれることに なったわけです。 もっとも、ハンガリーの実際の領土はオスマン帝国の 手に落ちていたわけですが。

ハンガリーの地はオスマン帝国に支配されていたものの、 ハプスブルク家によってハンガリー王国は存続します。 その間、首都が置かれていたのがポジョニ、 現在のブラチスラバです。

一時鳴りを潜めていたオスマン帝国が再び西進を開始したのが、1683年。 ハプスブルク帝国の首都ウィーンを包囲します。 いわゆる第二次ウィーン包囲です。

ハプスブルク家はこの戦いに勝利し、余勢を駆って東欧から オスマン軍を駆逐。 そして、1699年ついにオスマン帝国はハンガリーから撤退します。 ハプスブルク家による支配の始まりです。

日本は徳川将軍綱吉の時代ですね。

---オーストリア・ハンガリー二重帝国---
当初は歓迎されたハプスブルク家の支配ですが、 その支配はむしろオスマン帝国よりも過酷でした。 それに反発したラーコーツィ・フェレンツ2世の反乱などが起きています。 反乱は結局鎮圧されることになるのですが、 ラーコーツィは今でもハンガリーで英雄視されています。

さて、こうして全盛期を迎えたハプスブルク家の足元にも、 影が忍び寄ります。 1789年に発生したフランス革命がそれです。 1805年、ナポレオンがウィーンへ入城し、神聖ローマ帝国は 解体させられます。

革命の嵐はハンガリーへも波及します。 ハンガリーでは、マジャル民族の自治独立を求める運動へと 発展していきました。

そして1848年2月。 またもフランスで革命が勃発します。 フランス2月革命です。 この影響は凄まじく、帝都ウィーンでも革命が勃発。 これに呼応する形でハンガリーでもコシュートによる 独立政府が誕生します。

これは体制を立て直したハプスブルク家によって、 叩き潰されることになりますが、その影響は小さくありませんでした。

国内での反乱、対外戦争での度重なる敗戦。 それらに疲弊したハプスブルク家は、国内で大きな勢力をもっている マジャル人に妥協することで、体制の存続を図ります。 オーストリア・ハンガリー二重帝国の 誕生です。 ハンガリー国王はハプスブルク家が継承するけれども、 マジャル人による自治は認めたわけです。

1867年。日本では大政奉還が行われた年です。

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