チェコ史③(近代史)
---独立そして共産化---
ハプスブルク帝国末期。
多民族国家であった帝国内で、
民族運動が盛り上がりをみせます。
チェコもその例外ではありませんでした。
チェコ人はスロバキア人と協力して独立運動を展開します。第一次世界大戦の最中の1918年。 帝国の敵であった連合国側の承認があって、 チェコスロバキア共和国として独立。 同年、第一次世界大戦がハプスブルク帝国の敗北に終わったことで、 三十年戦争から約300年ぶりに、晴れて帝国のくびきを脱します。 が、再び自由を奪われる日がすぐやってきます。 約20年後の1939年、今度は西から ナチスドイツが侵攻してきます。 1945年、チェコスロバキアは ソ連によってナチスから開放されます。 ソ連によって開放されたことは、結果からいえばチェコに三度の 不幸を招いたといえるでしょう。 ソ連の圧力が強まる中、1948年に 共産党独裁政権が成立。 チェコの国民は三度自由を奪われることになります。
---プラハの春---
1968年、これはチェコの歴史の中で、
というより世界の近代の歴史の中でも、覚えておくべき年でしょう。当時のチェコでは経済停滞への不満もあり、民主化の気運が 高まっていました。 そうした背景があって改革派のドゥプチェクが 第一書記に就任します。 ドゥプチェクは『プラハの春』 と呼ばれる改革運動を推し進めます。 その中には言論の自由といった 民主化へ舵をきる改革が多く含まれていました。 これに危機感を抱いたのが、東社会の盟主を自認するソ連でした。 『プラハの春』を反革命と 決め付けたソ連は、ついに軍事介入 を決行します。 そして、ドゥプチェクは退陣を余儀なくされ、チェコの民主化運動は 終焉を迎えます。 1956年のハンガリーのように大きな流血をみなかったことは 不幸中の幸いといっていいでしょう。 この軍事介入は当然全世界の非難を浴び、同じ共産圏内で 中国とソ連が軍事衝突するきっかけにもなりました。 また、自浄能力を自ら放棄したことで、共産主義国家の経済が 停滞する原因となったといえるように思えます。 同時期に日本が高度経済成長を向かえたのとは対照的ですね。
---ビロード革命---
しかし、チェコスロバキアでの民主化運動が完全に
死んだわけではありませんでした。1985年、ソ連のゴルバチョフによってペレストロイカが始まると、 チェコでも民主化を求める声が強くなっていきます。 そこから、東欧民主化実現への流れは実に劇的です。 1989年。 世界の近代史で最も重要なこの年の幕を開けたのは ハンガリーです。 ハンガリーが西側諸国との国境を開放すると、 そこから雪崩のように東欧の民主化が進みます。 同年、ベルリンの壁が崩壊。 それをみたチェコスロバキアでも、やはり同じ年に 共産党政権が崩壊。 プラハの春で失脚していたドゥプチェクが復権します。 この流れの中、チェコスロバキアでは流血の事態を招かなかったことから、 柔らかい生地ビロードに例えて、ビロード革命 と呼ばれます。 プラハの春のときといい、不屈の魂を持ちながら、 流血を避けることのできる民族性には本当に驚嘆させられます。 翌年、亡命していた指揮者のクーベリック が帰国。 スメタナの『我が祖国』の指揮をとったのは、 この革命のハイライトでしょう。 この演奏は歴史的名演といわれています。 祖国が民主化されたことへのクーベリックの感動が、 演奏に反映されたに違いありません。 新生チェコスロバキアはではチェコとスロバキアの連邦制を とっていましたが、両国では経済格差があり、 それが後の分離へと繋がります。 チェコではスロバキアを経済的重荷に感じ、スロバキア側も 分権を求める声が強まっていました。 そして、1993年両政府の協議により、平和的に分離が実現します。 ビロード革命と同様、平和的に行われたので、 ビロード離婚と呼ばれます。 ユーゴスラビアのような悲劇があれば、プラハの美しい街並みを みることはできなかったかもしれませんね。
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