チェコ史A(フス戦争〜三十年戦争)
---フス戦争---
カレル1世の死後、ボヘミアに一人の英雄が現れます。 ヤン・フスがその人です。 現在チェコで最も愛されている人物といっていいかもしれません。 有名なマルティン・ルターより約150年前に現れた 宗教改革者でした。

彼の主張はボヘミアで幅広い支持を集めます。 が、ローマはフスの主張を認めず、 異端と断じます。

神聖ローマ皇帝であり、カレル1世の次男である ジギスムントは、 自らの足元のボヘミアから異端者を出すことを嫌い、 主張を変えるように説得しますが、フスは信念を曲げませんでした。 1415年、ついに異端者として 火刑に処されてしまいます。

皇帝ジギスムントはフスの影響力を読み誤ったというべきでしょう。 フスの思想に共鳴する人々が立ち上がり、戦争が起きます。 教科書で習うフス戦争がそれです。 戦争がようやく終結したのはフスの死から約20年後の1434年。 影響がいかに大きかったかが、よく分かります。 当時の日本は応仁の乱の30年ほど前で、 足利幕府が最も安定していた時期です。

フス戦争で疲弊したジギスムントは戦争終結の翌年死去。 ルクセンブルク家は断絶し、ボヘミアはしばらく混乱が続くことに なります。 ヨーロッパの覇権がボヘミアから、オーストリアのハプスブルク家へと 移っていく下地はフス戦争にあったといっていいでしょう。

---ルドルフ2世---
1526年、ボヘミア王とハンガリー王を兼ねていたラヨシュ2世が オスマン軍に敗れて戦死。 ハプスブルク家のマクシミリアン1世の政略結婚が功を奏して、 ラヨシュ2世の領土をハプスブルク家が継ぐことになり、 以後のボヘミア王は ハプスブルク家によって 継承されていきます。

ボヘミア王がハプスブルク家によって継承されるようになってから、 一度だけプラハが帝都 になった時期があります。

ルドルフ2世の治世がそれです。 政治的には無能ともいわれるルドルフ2世ですが、 文化面では芸術や学問を保護したため、 プラハは文化都市として開花します。

この時代活躍した有名人の中では、なんといっても天文学の ケプラーが最も有名でしょう。

ルドルフ2世の治世は1576年〜1612年。 日本が信長、秀吉、家康という三大天下人を迎えた時期です。

---三十年戦争---
帝都をプラハに移したルドルフ2世ですが、 残念ながらその政治はプラハで好評だったわけではありませんでした。 プロテスタントを弾圧したのが不評の原因です。 ヤン・フスを生んだことでも分かるように、 ボヘミアはプロテスタント信者が多く、 カトリックへの傾斜は国民の反発を招きます。

その不満が爆発したのが、ルドルフ2世の2代後の皇帝 フェルディナント2世のときです。 ボヘミアのプロテスタント諸侯は、ボヘミア王フェルディナント2世を 廃位し、新国王を迎えて対抗します。

その翌年の1620年、プロテスタント諸侯軍と皇帝軍が激突。 援軍が到着しなかったプロテスタント諸侯軍は、あっさり敗走し、 反乱は鎮圧されます。

が、それで戦争が終わったわけではありませんでした。 これをハプスブルク家打倒の好機とみたスウェーデン、デンマーク、 フランスといった列強が参戦したことで30年もの間戦争が続くことに なります。

が、それはともかくとして、この反乱失敗のために、 ボヘミア(チェコ)では ハプスブルク家の支配が強化 されることになります。 カトリック化し、チェコ語の使用が禁止され、 以後ボヘミアはハプスブルク家と共に歴史を刻むことになったわけです。

それ以後、第一次世界大戦までの歴史はオーストリア史に記述を 譲ることにしましょう。 ときに日本は、家康が死去して二代将軍秀忠の時代です。

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