チェコ史@(チェコ最盛期)
---プシェミスル家の統治---
あまり知られていませんが、
プラハがヨーロッパの中心であった
時代があります。
それはウィーンがヨーロッパの中心となった時期よりも早いのですが、
ここでは、その少し前から話を進めてみることにします。長くボヘミア(現在のチェコ)の地を統治してきた プシェミスル家が建国を 認められたのが1212年。 国名はボヘミア王国です。 神聖ローマ帝国が大空位時代を迎えたとき、 プシェミスル家は帝位を狙うまでの力を蓄えていました。 時の国王はオタカル2世。 オタカル大王とも呼ばれる人です。 その勢いは凄まじく、現在のオーストリアから、 イタリアやポーランドの一部まで支配するまでになっていました。 が、強力な皇帝が出現することを嫌った諸侯は 当時弱小君主だったハプスブルク家の ルドルフを皇帝に選出。 オーストリアにおけるハプスブルク家の基礎を築いた人です。 これに反発したオタカル2世は神聖ローマ皇帝となった ハプスブルク家のルドルフ1世と決戦しますが、あえなく 戦死。 ヨーロッパの覇者としての夢は潰えてしまいました。 1278年。日本は元寇の時代になります。
---カレル1世---
が、勝者であるハプスブルク家もそのまま覇者の道を歩んだわけではなく、
力のある皇帝の出現を嫌った諸侯により、ハプスブルク家も一旦
衰退することになります。その間、ボヘミアでは国王ヴァーツラフ3世が暗殺されて、 プシェミスル家は断絶してしまいます。 そこで、ボヘミアの貴族達は ルクセンブルク家から婿を迎えることにします。 そうして即位したのが、ボヘミア王ヨハン。 が、彼は祖国ルクセンブルクを愛していて、 ほとんどプラハに不在であったため、 国王代行としてプラハに迎えられたのが、ヨハンの子である カレル。 カレル橋の名前の由来であり、後にボヘミア王となってカレル1世、 神聖ローマ皇帝としてはカール4世と呼ばれる人です。 プシェミスル家の血を引いているため、 ボヘミア貴族から歓迎されたようです。 父王と違って、ボヘミアを愛したカレル1世はプラハを帝都として 発展させることに力を注ぎました。 カレル橋、カレル大学、プラハ城改築、新市街建設。 現在の美しい街並みはこの王があるおかげです。 この時期、間違いなくヨーロッパの中心 はプラハでした。 カレル1世の統治は1346〜78年。 ウィーンのハプスブルク家が隆盛を迎える約150年前のことです。 プラハの歴史の深さが分かります。 ちなみに日本は南北朝時代になります。
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