オーストリア史B(世界大戦〜現在)
---オーストリア=ハンガリー二重帝国---
ナポレオンの天下は長く続かなかったものの、 市民革命の思想は帝国を揺さぶり続けます。 国力が疲弊し、イタリアやプロイセンに立て続けに敗北。 生き残りの道を探るハプスブルク家は、 反乱の絶えなかったハンガリーに妥協する形で1867年 オーストリア=ハンガリー二重帝国を 発足させます。

これは、要するにハンガリーの自治を認める代わりに、 ハンガリーはハプスブルク帝国であることを続けるということですね。 この年号は記憶のある方もいるでしょう。 日本では大政奉還が行われた年です。

その初代皇帝であり、ほとんど最後の皇帝となったのが フランツ・ヨーゼフ。 帝都ウィーンの大改造を実施。 現在の街並みがあるのはこの皇帝によるといっていいでしょう。

---第一次世界大戦---
歴史の教科書で習うサラエボ事件。 第一次世界大戦の引き金となったその事件がオーストリアの皇太子の 暗殺だったことは意外と忘れられていることが多いように思います。

その事件に至るまでの経緯をみると、帝国末期の悲哀がよく表れていて、 劇的に思えますので、記しておきます。

始まりは皇帝フランツ・ヨーゼフの 一人息子ルドルフの死。 なんと愛人と心中しての死でした。

その9年後、今度は皇后エリーザベトが 無政府主義者によって暗殺されます。

そして、さらに16年後がサラエボ事件です。 ルドルフの死後に皇太子となっていた フェルディナンド大公が暗殺されます。 多民族国家であったハプスブルク帝国内で、民族運動が高まり、 帝国の支配に対して反発が強まっていたんですね。

暗殺犯はセルビア系住民。 領内のセルビア系住民はセルビア政府への編入を望んでいたんです。 それを抑えるために帝国は事件の責任はセルビア政府にあるとして、 セルビアへ宣戦を布告します。 それが第一次世界大戦の始まりです。

この時点で世界大戦を予想した国はなかったはずです。 それが、各国の思惑が絡んで、ハプスブルク帝国vsセルビアという 構図を超えて、世界大戦へと発展します。 結果は皆さんがよくご存知の通りですね。

ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国、ブルガリアといった 同盟国側が敗北。 同時にハプスブルク帝国も崩壊。 帝国内の民族がそれぞれ独立し、オーストリアもその中の一国として 新たにオーストリア共和国となります。

---第二次世界大戦---
あまり知られていませんが、第二次世界大戦もオーストリアは ナチスドイツの一部として参戦しています。

1938年にヒトラーがオーストリアに侵攻し、これを併合。 その後、よく知られているように、ナチスドイツは敗北。 戦後は、ドイツと同様に連合国側の分割統治 を受けます。

ベルリンの壁と同様に『ウィーンの壁』 の悲劇ができる可能性があったわけです。 美しい都のウィーンに壁ができてたら、と思うとぞっとしますね。

終戦から10年後の1955年。 永世中立国となることで、ようやく占領統治が終結。 不幸な時代が終わり、資本主義国家として再スタートします。

さらに時が過ぎて、1989年。 オーストリアが東欧の難民を受け入れるために国境を開放したことで、 東欧での民主化運動が盛り上がり、ついに ベルリンの壁が崩壊。 旧ハプスブルク領内の民主化の扉を開く役割を、 オーストリアが担ったわけです。 何やら運命的なものを感じますね。

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