オーストリア史A(マリアテレジア〜フランス革命)
---オーストリア継承戦争---
マリア・テレジアがオーストリア大公を継いだのは1740年。
第2次ウィーン包囲から約60年後です。
先代カール6世に息子がいなかったために、苦肉の策として
女性でも相続できるように法律を改正します。
そして誕生したのが、女王マリア・テレジア
です。今のオーストリアの人々がマリア・テレジアに対してどういう感情を 持っているのかは分かりませんが、まず悪い感情は持っていないでしょう。 世界史に冠たる女傑です。 マリア・テレジアについての小説は藤本ひとみさんの 『ハプスブルクの宝剣』がお勧めです。 その女傑も、即位後は苦労の連続でした。 まず、隣国バイエルン(首都ミュンヘン)やプロイセン(首都ベルリン)が 女性の即位に反対して兵を挙げます。 そして、神聖ローマ帝国の帝冠はバイエルンに奪われます。 窮地に陥ったマリア・テレジアが救援を求めたのが ハンガリーです。 当時ハンガリーはハプスブルクの統治に良い感情をもっておらず、 援軍を取り付けるのは難しい状況でした。 そこで、彼女は赤ん坊の長男を抱いてハンガリー国会で 大演説をします。 これに感激したハンガリー貴族が援軍派遣を決定して、 オーストリアは救われます。 まるで日本の北条政子ですね。 素晴らしい行動力です。 ハンガリーのマジャル民族は騎馬民族なので、 情に篤いことも良いほうに働いたのかもしれません。 こうして、神聖ローマ帝国の帝位を夫のフランツ・シュテファンの手に 取り戻し、ハプスブルク家は再び栄光の時代を迎えます。 マリア・テレジアの統治は1740年〜1780年。 日本は江戸時代中期。 吉宗の政治が終わり、田沼時代が全盛を迎える頃です。
---フランス革命---
マリア・テレジアと共にハプスブルク帝国が繁栄を謳歌している、
その側に、実は影が忍び寄っていました。
市民革命がそれです。隣国であり、マリア・テレジアの娘のマリー・アントワネットが 嫁いでいたフランスでそれが暴発します。 フランス革命勃発から4年後の1793年にルイ16世と マリー・アントワネットが処刑。 マリア・テレジア死去からわずか13年後のことです。 ヨーロッパ中を敵に回したフランスは、 天才ナポレオン の登場で劣勢を跳ね返し、1805年ついにウィーンへ入城。 その翌年にナポレオンの要求で 神聖ローマ帝国は解体。 約850年の歴史に幕を閉じます。 もともと神聖ローマ帝国という国は領土を持つものではなく、 いわば権威的な存在でしたが、 それでも解体の意味は小さくはないでしょう。 このときからハプスブルク家は オーストリア皇帝となります。 この後、オーストリアは世界の激動についていけず、 縮小を続けていくことになるその序章がフランス革命だったと いっていいでしょうね。
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