オーストリア史@(マリアテレジア以前)
---ルドルフ1世---
オーストリアの盛衰はハプスブルク家 とともにあるといっても間違いじゃないように思います。 そのハプスブルク家がオーストリアにやってきたのが ルドルフ1世のときです。

世は神聖ローマ帝国の大空位時代。 この約20年空位状態だった帝位を狙う人物が現れたことが、 ルドルフ1世を檜舞台へと押し上げました。 ボヘミア(現在のチェコ)王のオタカル2世です。

強力な皇帝が出現することを嫌った諸侯が推戴したのが、 当時スイスの小国領主だったルドルフでした。 いわば傀儡皇帝として、担がれたんですね。

が、傀儡として担がれたはずのルドルフ1世は実は優秀だったんですね。 当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったオタカル2世を戦死 させ、オーストリア領土を我が物とします。 これがオーストリアにおけるハプスブルク家の始まりです。 1278年。日本で言えば、元寇の時代です。

皮肉にも、ルドルフが有能であったがために、諸侯はハプスブルク家に 帝位が世襲されるのを嫌うことになります。

---マクシミリアン1世---
いったん衰退したハプスブルク家が勢いを盛り返すのが マクシミリアン1世のときです。 彼こそ、ヨーロッパ史を複雑にし、歴史を学ぶ現代の学生を混乱させた 張本人といっていいでしょう。 政略結婚の多さがヨーロッパ史を分かりにくくしているのは 間違いないと思いますので。

『戦争は他家に。オーストリアよ、汝、結婚せよ。』と言った マクシミリアン1世は政略結婚 を次々に打ち出します。 ルドルフ1世のときと同様、力がないと思われてまわってきた 神聖ローマ帝国の帝位。 それが政略結婚の成果で揺るぎないものへと 変わっていきました。

最も大きな成果がスペインハンガリーです。 それぞれ、王位継承者がいなくなったことで、 労せずして王位がハプスブルク家に転がり込んでくることに なりました。

スペインといっても、今想像するスペインとは違います。 イタリア南部にアメリカ新大陸のほとんどを領有する超大国です。 ハンガリーも当時は国力が大きく、現在のチェコ、スロバキアも 領有するヨーロッパの大国でした。 ハプスブルク家が『日の沈まぬ国』と 言われたのはこの頃です。 マクシミリアン1世が亡くなったのは1519年。 日本では北条早雲が亡くなった年にあたり、 本格的な戦国時代が幕を開けた時代です。

---ウィーン包囲---
とはいっても、全てが順調なわけではありませんでした。

ハンガリー王位がハプスブルク家に転がり込んできたのは、 オスマン帝国との戦いで、 ハンガリー王が戦死したからです。 オスマン帝国の勢いは凄まじく、ついにウィーンを包囲します。 1529年。マクシミリアン1世の死後わずか10年後のことです。

ウィーンは何とか守りきったものの、反抗をする余力はなく、 ハンガリーの領土はオスマン帝国の手に落ちます。 オスマン帝国の最盛期がこの時期で、地中海の制海権をも手にし、 ヨーロッパ社会が未知の海へと乗り出すきっかけとなっています。

再びオスマン帝国がウィーンを包囲したのは1683年。 約150年ぶりの進撃でした。 陥落目前で、援軍が現れオスマン軍を駆逐。 余勢を駆って、東欧からオスマン軍を追い出します。 ハンガリーの領土を回復したのもこのときです。

このウィーン包囲には伝説があり、 クロワッサンコーヒーが ヨーロッパに広まったのも、この出来事に関係があるといわれています。

ちなみに日本はすでに江戸時代に入っており、 生類憐みの令で有名な将軍綱吉の時代になります。

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