カンボジア史④(内戦の終結)
---ポルポト時代---
ポルポトの政治は劣悪を極めたといっていいでしょう。 都市部から農村への強制移住に始まり、貨幣を廃止して徹底した農業至上政策をとります。 学校教育の廃止に、宗教活動の禁止。 カンボジア仏教が壊滅的打撃を受けたのもこの時代のことです。 アンコール遺跡群にもその傷跡が残っているといわれます。

悪名高い政策は数多いですが、その筆頭は何といっても住民の虐殺です。 少しでも反政府的な思想をもつとされれば、連行されて殺されたとも言われています。 いや、それだけではありません。ただ知識人というだけで殺されたとも言います。

このあたり、ポルポトが崇拝する毛沢東の影響とも言われますが、その毛沢東が主導した 悪名高い文化大革命ですら、ここまでひどかったとは思えませんね。

虐殺はそれだけにとどまりませんでした。 すなわちベトナム系住民の虐殺です。 前ロン・ノル政権と同じことを彼もやったのです。 このあたり長いベトナム支配に対するカンボジア住民の反感は根強いといっていいのかもしれませんが、 もちろん、だからといって許されることでもありません。 まさに東洋のヒトラーの異名どおりの悪行といっていいでしょう。

---ベトナムの介入---
さらに、1978年1月ポルポトはベトナム国境を越えて、ベトナム人を虐殺し、ベトナムと断交します。 当然ながら、ベトナムの逆鱗に触れることになります。

当時の両国を取り巻く情勢は大きく変化していました。 アメリカがベトナム戦争から撤退したことで、1975年にベトナム戦争は終結。 ベトナムに平和が戻ったかにみえましたが、既に新たな火種が燻っていたのです。

それが中ソ対立です。 1969年の中ソ国境紛争を契機として、中国とソ連の対立が激化。 中国はアメリカに接近します。 1972年、アメリカのニクソン大統領が電撃訪中し、米中が国交正常化へと舵を切ります。 ベトナム戦争の最中のことです。

必然の流れとして、ベトナムは米中両国と対立するソ連に接近します。 一方、カンボジアのポルポトは中国から全面的に支援を受けていました。 ポルポト率いるカンボジアとベトナムの紛争は、中ソの代理戦争の側面もあったわけです。

1978年12月、報復のため、ベトナム軍がカンボジアに侵攻します。 ベトナム戦争に勝利したベトナム軍に、ポルポト派は連戦連敗。 ポルポト派はタイとの国境付近まで駆逐され、侵攻の翌月にはカンボジアに 親ベトナム政権が誕生します。

これに対する報復として中国がベトナムへ侵攻しますが、戦争経験豊富なベトナムはこれをよく防ぎ、 中国は戦果なく撤退することとなります。

ポルポトによる支配は約4年ほどで終結しましたが、その間に虐殺された人は100万人を越えるとも 言われています。それから40年も経過していないわけですから、その傷跡の生々しさは、 我々の想像を超えるように思います。

---内戦の終結---
が、ポルポトを始めとする反ベトナム勢力はタイ国境付近でゲリラ活動を続け、 カンボジア内戦が終結することはありませんでした。 一方、ベトナムはその後もカンボジアに軍を駐留させ続けた結果、国際社会での孤立を招きます。 これはベトナムの経済的停滞を招き、1986年ベトナムは政治改革を断行します。 その改革の一つが、外交的孤立からの脱却であり、その原因となっていたカンボジアからの 撤退を開始します。

ベトナム軍の完全撤退は1989年のことです。

これにより内戦は一気に和平へと傾き始めます。 カンボジア内戦和平に関する国際会議が立て続けに開催され、ついに1991年に パリ和平協定が成立。 ロン・ノルによるクーデターから30年。ついにカンボジアに平和が訪れたわけです。

1993年、国連の監視の下、総選挙が実施されます。 さらに、同年、シアヌークが国王に復位。 立憲君主国家として、新生カンボジアは歩みだしたわけです。

また、ポルポト派は総選挙に参加しなかったのですが、1997年にポルポトが死去し、 組織が完全に瓦解。ようやく内戦が完全に終結します。

つい20年ほど前までこの国が内戦という悲劇を経験していたことを、我々旅行者は 忘れてはならないですね。

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